夢野久作
この遺書を発表するなら、なるべく大正二十年後にしてくれたまえ。今から満十か年以上後のことだ。それでも迷惑のかかる人がいそうだったら、お願いだから発表を見合わせてくれたまえ。
僕は怖いのだ。現在背負わされている罪名の数々が、たまらなく恐ろしいのだ。万一、君が、僕の
だから僕はこの事件に関係している人々の氏名や官職名、建物、道路等の名称、地物の状況、方角なぞを、事件の本質に影響しない限り、できるだけ自分の頭で
この事件はもはや、内地に伝わっているかもしれない。または依然として厳秘に付せられているかもしれない。
僕は現在、自分自身に対してすら弁解のできないくらい、複雑、深刻を極めた嫌疑を、日本の官憲から受けているのだ。捕ったら最後八ツ裂きにされるかもしれない恐ろしい嫌疑を……。
僕──陸軍歩兵二等卒、上村作次郎が、ハルビン
もちろん、そんな
しかしそれにしても、そんな大事件を巻き起こすべく余りに無力な僕……むしろ小さな、間接的な存在にすぎなかったであろう一兵卒の僕が、どうしてそのような怪事件の大立物と見込まれるに至ったか……白状するまでもなく、中隊でも一番弱虫の小心者といわれていた僕が、どうして日本軍、白軍、赤軍の三方からにらみつけられ、警戒され、恐れられて、生命までも脅かされる立場に陥ってきたのか、そうしてその真相を発表する機会をトウトウ発見しえないまま、思いもかけない氷の
けっして
さもなくとも戦時状態の大渦紋の中では種々な間違いが起りやすいものだ。しかも、それは、いつでも例外なしに深刻を極めた、恐怖的な悲劇であると同時に、世にもばかばかしい喜劇にほかならないのだ。そうして次から次に忘れられて、闇から闇へと葬られていきやすいのだから……。
のみならず僕は、君の知っているとおりの文学青年だ。今でもチットも変っていない……。過って
ただし……タッタ一人君だけは僕を惜しがってくれやしないかと思っている。僕を何かの芸術家にすべくあれだけの
しかし僕は君の鞭撻に価しない人間だった。僕は一種の
だからただ君に対してだけは何となく心掛かりがしている。このまま黙って死んでいってはすまないような気がするからこの手紙を書くのだ。
この手紙を僕は、このウラジオにいる密輸入常習の中国人
迷惑だろうが読んでくれたまえ。あとは
日本は現在(大正九年)欧州大戦の影響を受けてシベリアに出兵している。同時に北満守備という名目で〇個旅団の軍隊がハルビンに駐箚している。その中で歩兵第〇〇〇連隊第二中隊に属する上等兵一名を入れた七名の兵卒が、キタイスカヤに在る派遣軍司令部に当番卒として、去年(大正八年)の八月に派遣された。その中に僕はいたのだ。
司令部にあてられた家はキタイスカヤ大通りの東南端に近い、ヤムスカヤ街の角に立っている堂々たる
ところで最初から
オスロフは黒い
第一に驚かされたのは彼の居室になっている四階のりっぱさであった。たぶん、以前に一等の客室か貴賓室にあてていたものであったろう。大理石とマホガニーずくめの荘重典麗を極めたもので、閉め切ってある大舞踏室なぞを
ハルビン市中の商人という商人は皆、彼にお辞儀をしていた。なかには、わざわざ店を飛び出して通りがかりの彼と握手しに来る者もいた。この辺一流の無頼漢や、馬賊の頭目と呼ばれている連中なぞも裏階段からコソコソ出入していた一方に、彼が銀月という料理屋で開く招宴には、日本軍の司令官
彼は別に大した財産を持っていなかったが、金を作ることには妙に得ていたという。のみならず持って生れた度胸と雄弁で、日米露中の大立物を、片端から煙に巻いて隠然たる勢力を張りつつ、白軍のセミヨノフ、ホルワットの両将軍を左右の腕のように使って、シベリア王国の建設を計画していたものだそうな。自分の所有家屋を、軍隊経理と同価格の
ところがこの頃になってまたすこし風向きが変ってきたという噂も伝わっているようであった。
白軍の軍資金が欠乏したために活躍が著しく遅鈍になった。ホルワット将軍は、病気と称して畑の向うの旧ハルビンの邸宅に寝ているらしく、彼が行っても容易に面会しない。同時にセミヨノフ将軍も以前のように彼の手許へ通信をよこさなくなった。それは日本当局が
「閣下よ。窓から首を出してハルビンの街を見られよ。ロシア人の性格はあのとおり曲線を好まないのだ」……といって……。
むろんこれは我々司令部の当番仲間だけが、勤務中に聞き集めた噂の総合だったからそのような噂はドンナ将来を予告しているかはもちろんのこと、はたして事実かどうかすら保証できないのであったが、しかし何にしてもハルビンを中心にしたオスロフの勢力が大したものであることは周知の事実であった。そのせいか司令部の中をチョコチョコと歩きまわる日本の将校や兵卒が、彼を見るたんびに
彼は以上
ことわっておくがニーナはけっして
性格はわからない。異人種の僕には全くわからないのだ。ばかばかしい話だが彼女が平生、何を考えているのか、彼女の人生観がドンナものなのか、全く見当がつかないのだ。ただぜひとも僕と一緒に死にたいというから承知しているだけのことだ。そうしてこの手紙を書いてしまうまで死ぬのを待ってくれというと簡単にうなずいただけで、すぐ落着いて編物を始めている女だ。だから僕にはわからないのだ。
死ぬ間ぎわまで平気で編物をしている女……。
すこし脱線したようだ。
ニーナは十四の年に
「お父さん……」
とでたらめを絶叫したものだという。それから大笑いのうちにオスロフの養女になって、語学だの、計算だの、自動車の運転だのを教わる身分に出世したが、酒を飲ませると悪魔のような記憶力をあらわすので皆あきれている。そのなかでも自動車の運転はアンマリ上手すぎて先生のオスロフが胆をつぶすくらい無鉄砲だったのでこの頃は禁じられていたという。むろん本人の話だから真実らしい。事実、酒を飲ませるとステキな才能と美しさを発揮する。雀斑までも消え薄れて気がつかなくなるのだから……。
また、脱線しかけた。
旅行がちなオスロフの留守中、司令部の上の四階には、そのお婆さんと細君とニーナの三人が、いるかいないかわからないぐらいヒッソリと暮らしていた。もっともそのなかでニーナだけは特別であった。彼女はいわゆる少女病の傾向に陥りやすい無邪気な司令部の将校や、下士連中に引張り
それから次は問題の屋上であるが、これはいちめん平べったい展望台になっていた。時々散歩に行ってみると紂王の四本の煙突を包み囲んだ四角い装飾
しかし僕がよくその展望台に行ったのはニーナを見るためではなかった。ニーナはここへ来た初めにタッタ一度、階段でスレ違いざまに「ズアラスウィッチ」と
僕がよく展望台へ上ったのは景色がいいからであった。平凡な形容だが、そこから眺めるとハルビンの全景が一つのパノラマになって見えた。邪魔になるのは向い家のカボトキン百貨店の時計台だけであった。
ハルビンはさすがに東洋のパリとか北満の東京とかいわれるだけはあった。
何丁という広い幅でグーッと一直線に引いてある薄茶色の道路からして、日本内地では絶対に見られない痛快な感じをあらわしていた。小さな葉を山のようにつけた
あっち、こっちにコンモリとした公園が見える。その間を鉄道線路が何千マイルにわたる直線や曲線ではいまわって、眼の下の停車場を中心に結ばれ合ったり解け合ったりしている。その向うにお寺の
……スバラシイ虚無の実感……。
その景色を眺めているうちに見当をつけておいた地域を、休みの時に散歩するのがまた、僕の楽しみの一つであった。
十万のロシア人は新市街に、三十万の中国人は
ところが、そんな所を丹念に見まわっているうちに、その副産物というわけではないが、市中にあるいろいろな銀行や両換店の名前、工場、商店、料理屋の大きなもの、劇場、
事実……屋上の展望と散歩を除いたハルビンの生活は、僕にとって退屈以外の何ものでもなかった。町のスケールが大きければ大きいだけ、印象がアクドければアクドいだけ、それだけハルビンの全体が無意味な空っぽなものに見えた。その中に一直線の道路と、申合せたようなモザイク式花壇を並べているロシア人のアタマの単調さ、退屈さ、それは我々日本人にとってとうてい想像できないくらい無意味な飽きっぽいものであった。その中で毎日毎日判で
ところが九月初旬の何日であったか。ちょうど月曜日だっから、僕たちが司令部にはいってから五週間目だったと思う。その不可抗的に大きな退屈を少しばかり破るに足る事件が持ち上った。むろんそれは最初のうち僕自身にだけソウ感じられたので、事実はトテモ大きい……シベリアから北満にかけての政局と戦局に、重大関係を及ぼすほどの事件の導火線だったことが後になってからうなずかれた。
それは経理室付の星黒という二等主計が公金十五万円をかっさらって、同じ司令部付の十梨という通訳と一緒に逃亡した事件であった。
そうした事実が発覚したのは月曜日の午前中であったが、取調べの結果判明したところによると、星黒主計が朝鮮銀行の支店から金を引き出したのは土曜日の午前中であった。それから何食わぬ顔で経理部へ来て、平常のとおり事務を執っていたのだから、行くえをくらましたのは土曜日の晩から日曜の朝にかけてのことらしかった。なお帳簿を調べて見ると星黒主計は、それまでに千五百円ばかりの官金を費消していたというのだから、たぶん、近いうちに実施の予定になっている軍経理部の会計検査を恐れて、毒皿方針をとる決心をしたものであったろう。……また、一緒に逃げた十梨通訳は七月の下旬に内地から来た者で、来る早々ホルワット将軍の手記を翻訳させられていたものだという。そのうちに星黒主計とも懇意になったらしく、よく一緒にどこかへ飲みに行く姿を見かけたものであるが、それが日曜の朝からフッツリ姿を見せなくなったのでテッキリ共犯とにらまれてしまったものである。……二人とも戦闘員ではないので軍人精神が薄弱である。おまけに旧式露人の豪華な生活や、在留邦人の放縦な交際に接する機会が多かった関係から、コンナ堕落した心理状態に陥ったものであろう……将校連中はいっていた。
しかし、こうした憤慨は将校連中よりも兵卒のほうがひどかった。この時の戦争の特徴として、どこをあてどもなく戦争しに来ているような、タヨリない、荒んだ気持に兵隊たちは皆なっているところであった。そのくせ、相手はいつどこでドンナ無茶を始めるかわからないパルチザンや
むろん司令部は大
あの憲兵の黒い襟章というものはナカナカ考えたものだ……とその時に僕は思った。それだけの連中が揃いの黒襟章でズラリと椅子にかかっているところを見ると、今にも犯人が捕まりそうな空恐ろしい気持がした。……むろん僕が犯人ではなかったのだが……。
その連中が詰めかけて来ると間もなく当番係の上等兵の命令で、戦友の一人が当番卒を拝命して行ったが、そのうちに午後になると、上等兵がいくらかフクレ気味になって僕を呼び出した。
「……オイ。上村、すまんが君代りに捜索本部へ行ってくれ。もっとハルビンの事情に明るい者をよこせって曹長に怒鳴りつけられたんだ。君がいなくなると司令部が不自由するんだが……」
僕は笑い笑い身仕度をした。不平どころか……一種の探偵劇でも見るような
行ってみると捜索本部には、今いった六人のほかに司令部付の
僕はその部屋の入口に近い当番用のテーブルと椅子とに納まって、並居るお歴々の諸氏がドンナ捜索をするかを一生懸命に注意していた。むろんそれは大きな退屈から絞り出された、つまらない一種の探偵趣味にすぎなかったがしかし、それでもこの部屋に集まって来る報告はできるだけ頭に入れておこう。まかり間違ったら、おれ一人で犯人を捕まえるのもおもしろかろう……ぐらいの野心はいささかながら持っていたことを白状する。とにかくいつも引っ込み思案の僕が、永い間の退屈病に悩まされていたせいであったろう。この時に限って、今までにないいきいきした興味の中に
捜索本部の手はもはや、午前中に八方に伸ばされていた。ハルビン市中はいうに及ばず、東は露中国境のポクラニーチナヤ、
いったいこの星黒という主計は、名前のとおり色の浅黒いツンとした小柄な男で、イヤに神経質にもったいぶったやかまし屋であった。ふだん戦闘員から
しかしこれに反して一緒に逃げた十梨通訳は格別、憎まれていなかった。ちょっと見たところ、何の特徴もないノッペリした色男だったので、兵卒連中から幾分、軽蔑されている傾きはあったが、それでも外国語学校出身のりっぱな履歴を持っていたそうである。人間が如才ない上に、ロシア語が読み書き共にステキに達者なので、着任早々から三階の連中に重宝がられていた事実と、これも如才ない一つであったろうか、軍隊内で禁物の赤い思想の話が、どうかした拍子にチョットでも出ると、たちまち顔色を変えてロシアの現状を
その二人はいまや全軍の憎しみを引き受けつつ行くえをくらましているわけであったがしかし、捕まったという情報はなかなか来なかった。そうしてその日が暮れて、
もっとも、それは僕一人じゃなかったことを間もなく発見することができた。
僕は最初のうち憲兵諸君の行儀のいいのに感心していた。芝居の並び大名といった格で、一列一体に威儀を正したまま、いつまでもいつまでもかしこまっている。執務中のつもりであろう煙草一服吸う気色もない。時々思い出したように「電話はかからないか」とか「電信はこないか」とかいって一軒隣りの司令部に僕を聞きにやる。そうかと思うとまた、思い出したように地図を引っぱり出したり、一度投げ出した汽車の時間表を拾い上げて繰返し繰返し検査したりする。……この辺は汽車の時間表はないほうが正確なのに……と思ったがおそらくこれは退屈しのぎのつもりであったろう。
この連中が腕ッコキといわれている理由は、発見された犯人を勇敢に追跡して、引っ捕らえてタタキ上げて、処刑するまでの馬力がトテモ猛烈で、疾風迅雷式をきわめているからであった。ただそれだけであった。だからその犯行の
彼ら黒襟の諸君は、だからこうして威儀を正しながら偶然の機会を待っているのであった。犯人が高飛びをするとなれば必ず鉄道線路を伝うに相違ない。それ以外の地域はまだ交通、生命の安全を保障されていないのだからその要所要所に網を張っておけばキット引っ掛るに相違ないという確信を持っているらしかった。しかもその要所要所に見張っている黒襟の諸君がやはりコンナふうに、その要所要所で一団となって、威儀を正しているであろう光景を想像すると何ともハヤ、たまらないアクビがコミ上げてくるのであった。
そいつを我慢しいしい向いの家のカポトキンの時計台が報ずる十一時の音を聞いた時にはもはや、トテモ我慢できない大きなアクビが一つ絶望的な勢でモリモリと爆発しかけてきた。ソイツを我慢しようとして
僕は後悔した。僕を捜索本部の当番の刑に処した上等兵を
しまいには自分自身が厳然たる憲兵に取り巻かれ、第三等式の無言の拷問を受けている犯人みたようなものに見えてきた。……これじゃ、とても辛抱しきれない。いよいよやりきれなくなったら「私が犯人です」といって立ち上ってやろうかしらん。そうしたら、いくらか退屈がしのげるかもしれない……なぞ途方もないことまでボンヤリと空想し始めていた。そのうちにヤット昼食の時間が来た。
僕は本部の連中に、弁当のライスカレーとお茶を配った。それから自分の食事をすまして地下室へ降りると、そこでまた、悲観させられた。当番連中がいっせいに僕の周囲に集まって来て、
「どうだ。捕まりそうか」
と口々に聞くのであった。そのまわりを料理人の中国人や、雇人頭のコサック軍曹、耳の遠い掃除人夫の朝鮮人といった連中が取り巻いて、青や、茶色や、黒の眼に、あらん限りの興味をキラキラと輝かしているのであった。
僕は手を振って逃げるように自分の食卓についた。
「……だめだよ。捕まったのはアクビだけだよ」
といいたいのを我慢しいしい皮のままのジャガイモを頰張った。
食事をすました僕は、地獄に帰る思いで地下室を出た。イヤに長い午後の時間を考えながら、
「オイ。当番。これを第二公園裏の銀月という料理屋に持って行け。知っとるだろう。経理部の取調べがすんだから返すのだ。銀月の会計掛の阪見という男に返すんだ。阪見がおらなければ銀月の
僕は曹長の手から四角い平べったい、青い
「ハッ。
「ばか……誰が帳簿というたか」
曹長は千里眼に出会ったように眼を
「その包みの内容は極秘密になっとるんだぞ」
僕は情なくなった。これが帳簿だとわからないくらいなら一等卒を辞職してもいいと思った。
「ハッ。上村はこの四角い箱を銀月に持って行きます。そこの会計主任か、女将に渡します。それ以外の人間に渡さなければならない場合は持って帰ります」
「よし……女将の名前は知っとるじゃろう」
「ハイ。知りません」
「富永トミというのだ。ええか」
曹長は重大そのもののような顔をした。
僕は巻
何を隠そうトテモ
僕は悪いことと知りつつわざと遠まわりをした。キタイスカヤの雑踏を避けて、第二公園の方向から外れた広い通りへ広い通りへ出て行った。
道の両側に並んだ
青い風呂敷包みを抱えた僕は口笛を吹きながらユックリユックリと歩いて行った。そうして茶鼠色の薄い土煙をあげる歩道をみつめながらいつの間にか眼の前の退屈事件のことを考え続けていた。
……星黒と十梨は今頃どこにいるだろう。
……二人ははたして共犯者だろうか。
仮におれが犯人だとすればドンナふうに逃げるだろう。捜索本部の能力を最初から
……汽車で逃げるのは一番捕まりやすい道を行くようなもんだ。ハルビン以西の安全区域だけを上下している、松花江通いの汽船に乗っても同じことだ。目下のところ日本官憲の手が届くのは、そうした交通機関の動いている範囲内に限られているのだから。そんなものを利用して逃げるのは官憲の手の中をはい回るのと同じことになる。それを知らない二人ではあるまい。
……ところでそれ以外の通路を伝ってハルビンの外まわりの
……しかしそこには日本の官憲よりもモット恐ろしい者が知らん顔をして待ち構えている
……その次はお
……この三つしか目下のところ、抜け路はないようだ。一方に星黒が想像どおり露語通訳を連れているものとすれば、その逃亡計画は遠大なものと見なければならないが、サテどの方法を取っているのであろう。
……捜索本部の連中は夢にもそんなことに気づいていないようであるが……。
そんなことを考え考え司令部からシコタマ
後から考えると僕がこの時に心機一転した結果が……モット端的にいうと、僕はこの時に青の風呂敷包みを抱え直した
僕は帳簿の包みを抱え直したトタンにある一つの大きなヒントを受けたのであった。もしや星黒主計は銀月に隠れているのではないかしらん……と……。
これは単なる僕の想像程度のものにすぎなかったが、しかし、それでも全然理由のない考えではなかった。今持って行く帳簿は、星黒主計が費消した官金の行くえを調べ上げる参考にしただけの物であることはわかりきっているが、しかし今までチットも話を聞かなかった銀月が、犯人の秘密の遊び場所だったとすると、そこを犯人の有力な隠れ場所の一つとして数え上げないわけにはいかないであろう。これが憲兵だから気づかないでいるようなものの、内地の警察か何かだったら、ドンナ鈍感な刑事でも、すぐに疑いをかけてみるところであろう。
銀月はハルビンきっても一流料理店だという。同時に北満きってのみごとな日本建築の
コンナふうに頼まれもしない事件の真相をタッタ一人で……おそらく世界中でタッタ一人でしんけんに考えめぐらしながら、覚えず知らず探偵趣味を緊張させているうちに、どこをどう曲って来たものか銀月の三層楼閣がモウ向うに見えてきた。何という式か知らないが、スレート屋根のすてきに大きい、イヤに縦長い窓をやたらに並べたカーキ色の化粧煉瓦張りの洋館に、不思議によく似合った日本風の軒灯。二階三階の窓ガラスに垂れこめた水色のカーテン……そんなものが気のせいか妙に秘密臭くシインと静まり返って、
僕はチョット
いま一度、躊躇しながら上り口の呼鈴を押すと、奥の方からバタバタと足音がして十六、七の小娘が出て来た。その小娘がまだ立ち止まらないうちに僕が敬礼しながら、
「阪見さんは居られませんか。司令部から来ましたが……」
と怒鳴ると、ちょうど待っていたかのようにすぐ横の応接間らしい扉が開いて、奥様風の
「……あの……阪見はちょっと出かけておりますが……わたしはアノ……富永でございますが……」
「あ。そうですか。富永トミさんですね」
「ハイ……」といううちに
僕は固くなった。
「司令部から来ました。……昨日お借りした……帳簿をお返し……しに来ました」
と一句一句石ころみたいな口調を並べた。
「まあ。御苦労様。いつでもよござんしたのに……すみません。たしかに……お受取りを差し上げましょうか」
「どうぞ。……しかし帳簿と書かないで下さい」
「かしこまりました」
といううちに女将は何かしらニッコリしながら
女将の笑顔がいっそう、深くなった。
「……では……あの新聞包み一つと書いておきましょうね」
「ハイ。結構です」
僕はヤット冷静になった。コンナ所でドギマギしていた自分のばかさ加減を自覚すると同時に、最初から僕を
「かしこまりました……ホホ……」
と女将は笑い笑い立ち上ったが、そのついでに僕の腕章をチラリと見るとまた、立ち止まった。
「……あの……ちょっとお上りになりませんか。
そういう女将の言葉が終るか終らないうちに、小娘が飛び降りて来て、僕の靴にカバーを押しつけた。
「……や、これは……」
とばかり僕はまたも躊躇してドギマギした。むろん平常の僕だったらここで九十九パーセントまで御免こうむるところであったろう。上り口に腰をかけて待っていても用は足りるばかりでなく、ただの当番卒でしかない僕が、公用のお使いに来て上り込んだりするのは、非常に不自然な行動に違いなかったのだから……。
ところがこの時ばっかりはソンナ遠慮気分や、不自然な感じがチットもしなかったから妙であった。たぶんそれは何か物いいたげな女将の素振りが、最前から働きかけていた僕の、銀月そのものに対する探偵趣味をそそったせいであろう。そのうちに一種の勇気を奮い起した僕は、案内されるままに黙って左右を見まわしながらタッタ今女将が出て来た応接間にはいった。
それは実にりっぱな部屋であった。何もかもがまだ一度も見たことのない風変りな、凝った物であったばかりでなく、ヒイヤリするほど薄暗かったので、最初のうちは何が何やら見当がつかなかったが、よく見るとそれは
するとまた、入口の扉が音もなく開いたから、モウ受取りができたのかと思って腰を浮かしかけるとあにはからんや、大きな銀盆の上にいろいろな
これにはイヨイヨ驚いた。いくらハルビン一流の銀月でもアンマリ手回しがよすぎる。いわんや普通の兵卒がお使いに来たのに対してこのもてなしは少々大げさすぎる……と内心疑わぬでもなかったが、そんな考えをめぐらす隙もなくはいって来た女将は、
「……どうもお待ち遠さま。
「すみません」
「どういたしまして、お国のために遠い所からお出でになってねえ。失礼ですけれど、お国はやはり〇〇の方で……」
「あっ。どうしてわかります」
「ホホ。お言葉の調子でわかりますわ。いつ頃から司令部にお出でになりまして……」
「八月からです」
「御苦労さまですわねえ。これからまたズットハルビンにいらっしゃるんですってね」
「ハア……どうして御存じですか」
「ホホホホホホ……」
女将は生娘のように顔を染めて笑った。
僕はその笑い声の前で身体が縮まるような気がした。こんなふうに自由自在に顔を染めうる女が、いかに恐ろしい存在であるかを、僕は知りすぎるくらい知っていた。のみならずこの女将の言葉がサッキから非常なスピードで、うち解けた合の子語に変化していくに連れて、何かしら僕に重大な事を尋ねたがっているらしい気はいを感じていたが、はたして……はたしてと気がつくと、油断なく腹構えをしながら冷たいビールをグッと飲んだ。
「ホホホホ。そりゃあ存じておりますわ。商売のほうと関係がございますからね。今、日本軍の方が引き上げて行かれたら、この店はモウとても……ねえ……そうでしょう……」
僕は深くうなずいた。なるほどと気がついたのでまたも赤面した。
「……でもねえ。ロシア人仲間にいわせると、日本軍は来年の春になったら立ち退くにきまっているって……そういうのですよ」
「ロシア人ってオスロフがですか」
今度は女将のほうが驚いたらしい。またも、ちょっと顔を赤らめながら
「ええ。そうなんです。公然の秘密だって……そういっておりますけれどね……」
「そんなばかな事はないでしょう。いまさら日本軍が引き上げるなんて……」
「……ねえ……そうでしょう。兵営の設計もチャントできているし、飛行機の着陸場も松花江の近くのどこかに買ってあるっていうお話でしょう」
「それは誰が話したのですか」
「ホホホホホ。でもほんとうでしょう」
「ええ。僕もその図面っていうのを曹長に見せてもらったんですが……もしや星黒さんが話したんじゃないでしょうか……ここで……」
この質問は僕としてはあまりに不謹慎であった。僕の探偵的興味がいかに高潮していたとはいえ、まだ
……女将は僕の言葉が終らぬうちにサッと顔色を変えた。眼をマン丸にして僕の顔を凝視したが、間もなく大きな
「ええ。そうなんです。ですけどこの事ばかりは後生ですから内密にしといて下さいましね。ドンナお礼でもいたしますから……星黒さんばかりじゃありません……わたしを……可哀そうと
女将は顔を上げえないまま螺鈿のテーブルの上に石竹色の指を並べた。前髪がテーブルの平面にクッつくほどお辞儀をしたが、その神妙らしい
しかし幾分、ビールが回っていたせいでもあったろう。愚かにも僕は女将のこうしたデリケートな技巧を、さほど重大に考えなかった。後から思い合わせるとこの時に女将は、どこかに隠してあった呼鈴のボタンを押したに違いないのであったが、それさえもこの時には気づかなかった。ただ相手に事件の内容を感づかせないまま図星? を指しえたもの……とばかり考えていたので、多少の誇りに満たされながら軽く頭を下げたように思う。
「……ハハハ……心配しなくともいいですよ。僕らの眼にはいるくらいのことなら秘密でも何でもないにきまっていますからね。しかし星黒さんはショッチュウこちらへ来ましたか」
「ええ。ほんの時々ですけど……」
「十梨君と一緒にですか」
「…………」
女将は返事をしなかった。ちょうどその時に最前の小娘が扉からのぞいたので、女将は何かしらうなずきながら立ち上った。
「……あの……ちょっと失礼を……」
といううちにバタバタと逃げるような足音が、重たい扉で遮られてしまった。
僕はホンノリとした頰を両手で押えた。いまさらのようにフワフワする椅子の中に反りかえってノウノウと伸びを一つした。久しぶりで飲んだせいかビールが恐ろしく利いてしまって、何も考えることができなくなった。モウこの上に女将から事件の真相を探り出す方法はないものかと焦りながらも、首のつけ根を通る動脈の音がゾッキゾッキと鳴るのを聞いているばかりであった。あんまり酔ったのでもしや麻酔をかけられたんじゃないか……なぞとばかばかしいことを考えているうちにいつの間にはホントウに眠り込んでしまったらしい。
扉の開いた音で目を
「どうもお待たせしまして……阪見が先から先に回っていたものですから……どうぞ司令部のほうによろしく……」
僕はあわてて眼をコスリながら跳ね起きた。
「ヤ……どうも……」
と頭を下げながら腕時計を見ると三時半近くになっている。先刻から二時間余りも睡っていたわけだ。
「ホホホホホ御迷惑でしたわねえ。司令部へお電話しておきましょうか。阪見がいないので、お引き止めしたわけを……」
「ハア。どうか……イヤ。司令部から電話が掛ったら、そういっといて下さい。それでいいです……」
といううちに僕は
「……失礼ですけど……これはお小遣いに……」
といって女将が差し出す紙包みを極力押し
……イヤ大失敗大失敗。捜索本部へ帰ったら曹長に大眼玉を食うかもしれないぞ。酒と女に心許すな……か。イヤ大失敗大失敗……。
と微苦笑しいしいビールの酔いを醒ますべく帽子を脱いでは汗をふきふきした。
ところがこの時に演じていた僕の失敗はソンナ浅はかなものではなかった。銀月の応接間でウッカリ
僕はセントランの階段を大急ぎで二階へ駆け上った。いま一度帽子を冠り直しながら、捜索本部の扉をノックしてみたが誰も返事をしない。
僕はチョット変に思った。
思い切って扉を開いてみると誰もいない。……オヤ……と思って司令部に引っ返してみるとここにはチャント
三階へ駆け上ってみると、将校以下、下士官の部屋まで一つ残らずガラ空きになっていた……。
僕はその時に何かしら胸騒ぎがした。星黒主計が捕まったにしては少し様子が変だが……もしかするとそれ以上の大事件ではないかと気がついたので、そのまま一階へ駆け降りて、玄関の入口に立っている〇〇連隊の
「……イヤ。おれは何も知らない。しかし司令部の様子は、すこしおかしいようだ。……何でもおれの前の前の一時の歩哨が立っているうちにこの箱(歩哨の背後二、三歩の街路に面した壁に取り付けてあるセントラン専用の郵便受箱)の中から当番係の上等兵が取り出した手紙の中一通、妙なのが混っていた。赤いロシア活字で裏書した白い、大きな西洋封筒で、郵便切手が一枚も貼ってないのに郵税不足にもなっていないので上等兵は歩哨に見せて『何だろう』……と話し合った。たぶんゾロゾロ通っている毛唐の中の一人が、歩哨の気づかないうちに投げ込んで行ったものだったろう。
……ところで上等兵は洋文字に苦手だったらしい。階段の上を通りかかった雇人頭のコサック軍曹を、歩哨のところへ呼び下して読んでもらうと『日本軍司令部御中』とだけ書いて発信人の名前が書いてないことがわかった。するとまたちょうどそこへ、どこからか帰って来た憲兵中尉が、二人の背後から『何だ』といってのぞき込んだので二人はあわてて敬礼したついでに、その封筒を見せたものだそうな。
……何気なく受け取った憲兵中尉はスラスラと上書を読みながら、『フン。また何かの広告だろう』といいいい無造作に封を切ったそうだ。ところが、その中にはいっている青いロシア文字の奥の方をチラリと見ると中尉の顔色が少々変テコになってきた。あわててその手紙を握りつぶしたまま、黙って二階に駆け上ってしまったそうだが、それから急伝令が二、三人どこかへ飛んだと思うと、上等兵を残した当番卒の全部が召集された。そうしてその当番卒と一緒に、何かしら書類の包みらしいのを手に手に持った司令部の連中が、愉快そうに笑っている旅団副官を先に立てながら出て行ったと……いう話だが詳しい事情は知らない。みんな『何だろう何だろう』と不思議がってはいるが、いまだにその手紙の正体はわからずにいる。しかし、そのうちに当番連中が帰って来たらアラカタ様子がわかるだろう。
……そのほかに変ったことは一つも聞かない。……ウン……それからチョッとしたことだけれども、その後で立った二時の歩哨がおれと交代するジキ前のことだったという。停車場の方からこちらへ曲り込んで来た一台のりっぱなタクシーが、向うの辻(キタイスカヤとヤムスカヤの交合点)のまん中で故障を起してしまった。猛烈なプロペラみたいな爆音と一緒に、まっ白な煙を吹き出してヘタバッたので、通りがかりの人が見な立ち止まって見物した。するとその中から旅行服(狩猟服の見誤り?)に黒のハンチングを冠った背の高い紳士が一人、片手に新聞を持って出て来たが、それと一緒に見物人の中で帽子を脱ぐ者がチラホラいたので、変に思ってよく見ると、それは久しく姿を見せなかったオスロフだった。……オスロフはニコニコ顔で答礼しながら運転手に金をやると、自分で
……当番の上等兵が、もちっと前に司令部付の少尉殿から呼ばれていたそうだが、何か知っているかもしれない。聞いてみたまえ、君も宿なしになっちゃ困るだろう。ハハハ……しかし歩哨の守則(警戒上の注意事項)は平生のとおりだから大した事件じゃないかもしれないよ」
……と答えながらモウ一度眼をパチパチさせるばかりであった。だから僕もしかたなしに要領を得ないまま眼をパチパチさせた。そうして今さっきはいりがけに歩哨に見せるのを忘れていた「公用外出証」を出して見せた……。
……僕はここでもウッカリしていたのだ。
僕がもしこの時に、いま少し注意深くそこいらを見まわしたら、僕の背後の階段の陰に、この家の雇人たちの不安そうな眼が黒や、青や、茶色をとりまぜて、
しかし遅刻のほうにばかり気を取られていた僕は、そんな重大な形勢をミジンも感づかなかった。それよりも捜索本部が留守になったおかげで、予期していた曹長の大眼玉とキンキン声にぶつからなかったのをもっけの幸にして、帯剣を地下室に解き棄てると、何食わぬ顔で、空っぽの捜索本部に帰って来たのは我ながらおぞましい限りであった。
僕はそれから捜索本部の机の上をグルグルと見てまわった。
僕はガッカリして入口の横の机に帰った。そのうちに連中が帰って来たら事情が判明するだろうと
捜索本部はトウトウ日暮まで帰って来なかった。だから僕も眼を醒ますとすぐにキチンと掃除をして室内を片づけてしまった。それから地下室に帰って、シャツ一枚のままタッタ一人で夕食をすましたが、サテ外出しようか……どうしようかと思い思い向うの隅を見ると、僕の外出許可証を預かっている上等兵が、昼間の弾薬
屋上に来てみると黒タイルを張り詰めた平面の所々に新しく水をこぼした
……僕は実をいうと、この時この屋上にサボテンを見に来たのではなかった。例によって、ハルビンを取り囲む大平原の眺望を見回しながら深呼吸でもしてやろう……ついでに銀月の方向を眺めて、十五万円事件の解決法でも考えてやろうか……といったような、至極ノンビリした気持に誘われて上って来たのであったが、しかしこの時の僕の頭は最前のビール
僕は念のために、サボテンの棚の前を、往来に向かったタイルの端まで歩いて来た。その縁端にある、古風な
僕はだんだんしんけんになってきた。今日が今日までこんな不思議な事実にドウして気がつかなかったんだろうと思い始めた。
僕は何でもカンでもこの理由を研究してみたくなった。これも僕のいわゆる「退屈魔」がさせた気まぐれに相違なかったが、どうせ夜は
何でもない頭で見たらコンナ事実は、この札を立てたニーナの気まぐれとしか考えられなかったであろう。また学者か何かの頭で考えたら、こうした現象は、ニーナが先天的に数字に対する観念を持たない、一種の
……すぐに下から紙と鉛筆とを取って来て、この番号の欠けたところと重複したところとを順序よく書き並べてみようかしらん……ついでに棚の上の行列についている番号札をその順序に書き並べて、それが何かの暗号通信になっているかどうかを突き止めてやろうか……それとも向い家の時計台からこの暗号を読み取っているであろう何者かの正体を探り出すのが先決問題か……
……なぞといろいろに考え直しながら、暗くなってゆく屋上をソロソロ行ったり来たりしていた。はるかに西北、松花江尾の対岸から、大鉄橋を覆うて襲来する濃厚雄大な霧の渦巻を振り返り振り返り立ち止まったりしていた。
ところがそのうちに間もなく、その霧の大軍がグングン迫って来そうに見えたので僕はトウトウ決心した。とりあえず番号だけを写しておくつもりで、裏の鉄梯子の方へ鋭角の回れ右をすると、それとほとんど同時に、本階段の方向から不意に、あわただしげな靴音が駆け上って来て、思いがけない軍装の憲兵上等兵が眼の前にバッタリと立ちはだかったのであった。
僕はギョッとして一歩退いた。シャツ一枚のスリッパばきで屋上に出ることは、風紀上厳禁してあったので、さては見つかったかと思いながらあわてて不動の姿勢をとって敬礼した。
ところが妙なことに、その憲兵も何かしら面食らっているらしかった。僕の姿を夕闇の中に認めるとハッとしたらしく、軍刀をつかんで立ち止まった。眼をすえて僕の顔を見たが、それが顔なじみの当番卒であったことがわかるとホッと安心したらしい。簡単に敬礼を返しながらそこいらを探るように見回しているうちにまたも僕の顔に
「オイ当番。ここに誰か来はしなかったか」
「ハッ。誰も来ません」
といいいい僕は敬礼を続けていた。
「……よし。手を下せ……ニーナが来はしなかったか……この家の娘だ」
僕はなにかしらドキンとしながら手を下ろした。
「イヤ。誰も来ません」
「フーン。お前はいつからここに居たんか」
といううちに憲兵上等兵はモウ一度、疑い深い眼で屋上をにらみまわした。
「ハッ。上村は一時間ばかり前からここを散歩しておりました」
「フーム。たしかに誰も来なかったな」
「ハッ。さようであります」
憲兵は依然として
「誰か来たらすぐに知らせよ。おれは四階の舞踏室の前に居るから……ええか……」
「ハッ。四階の舞踏室……」
と僕が
僕は何が何やら訳がわからなくなった。
いないとばかり思い込んでいた憲兵が、突然にどこからか湧き出して来て、そうしてまたどこへ消えて行ったのか……何のためにニーナを探しているのか……第一彼らが用事のありそうにもない、閉め切ったままの舞踏室の前で、今まで何をしていたのか……ということすらサッパリ見当がつかなかった。……否。見当がつかなかったというよりも気がつかなかったと説明したほうがホントウであったろう……。
それはむろん、僕の頭が「暗号問題」の一方にばかり集中しすぎていたせいに違いないと思う。さもなければ眼の前のサボテンの不思議と、眼の色を変えてニーナを探している憲兵を結びつけて考えるくらいの頭の働きは誰でも持っているはずだったから。そうして同時に、そうした二つの事実の交錯が生み出す簡単明瞭なクロスワードに気づいて、肝をつぶすか、飛び上るかするくらいの芸当は、誰でもできるはずだったのだから……
ところがこの時に限っては僕の頭は、そんな方向にちっとも転換しなかった。ちょうど下へ降りようとする出鼻をくじかれた形で、
……ばかばか……おれはなんというばかだったろう。おれはタカの知れた当番の二等卒じゃないか。特務機関の参謀連中が考えるような仕事を、手ブラのおれが思いついたって、誰も相手にしてくれないことはわかりきっているじゃないか。おれはコンナ仕事に頭を突っ込みこの展望台へ出て来たのじゃなかったではないか。
……第一いくらおれが暗号を研究しようと思ったって、万一それがロシア文字でできていたらドウするんだ。英語しか読めないおれにはとうてい、解読できないにきまっているじゃないか。……そうかといってでたらめ同様な数字の排列を、これが暗号でございといって捜索本部に担ぎ込んでもはたして感心してもらえるかどうか。……タカの知れた二等卒のおれが、屋上のサボテンと、十五万円事件との間に重大な関係があるなぞと主張しようものなら物笑いの種になるぐらいが落ちだろう。……また、はたしてソンナ重大な暗示が、このサボテンの排列に含まれているかいないかも、よく考えてみると大きな疑問といっていいのだ……。
……あぶないあぶない。今日はよっぽどドウカしているらしいぞ、先刻からとんでもない大それたことばかり考えているようだ。コンナ時に屋上から飛び降りてみたくなるのじゃないか……ケンノンケンノン……ソロソロ下へ降りて行くかな……。
気の弱い僕はソンナふうに考え直しながらモウ一度ホーッと深呼吸をした。タッタ今憲兵が降りて行った本階段の前に立ち止まって、中央の煙突の付根に、こればかりは動かされたことのない等身大のサボテンの葉の間に暮れ残る、黄色い花をジイッと凝視しているうちにトウトウまっ暗になってしまった……と思ううちに向い家のカポトキンの時計台の中へポッカリと
その時であった。
不意に僕の背後で、またもや何かしら人の来る気はいがした……と思う間もなく僕は夢中になって右手を振りまわした。
僕は
相手が女だとわかると弱虫の僕は急に気が強くなった。
僕は仰天した。実際面食らった。
早くも二人を包みかかった霧の影をキョロキョロと見まわした……「いったい、何だってコンナことを」……といおうとしたが、あいにく、一夜漬の軍用ロシア語がなかなか急に思い出せない。確かに冷静を失っていたらしい。しかたがないからニーナにも多少わかるはずの日本語で、
「……静かになさい……」
というと組み敷かれたままのニーナが案外にハッキリとうなずいた。そこで僕は少しばかり手を緩めて、霧の中に立たせてやろうとした……が、そのわずかな隙を狙ったニーナは突然にビックリするほどの力を出して跳ね起きた。両手を顔に当てたまま、濃い霧の中に身を翻して消え込んだ。階段を飛び降りて行く
……開いた口が
……僕はハッとした。トタンに気持がシャンとなったように思う。
向いの家の時計台から、霧にしみ込んでくる光線に短剣の刃を透かしてみると、血は付いていないようである。身体をゆすぶってみても別にけがはしていないようであるが、その代りにゾクゾクと寒気がしてきた、日が暮れると同時に急速度で寒くなるのがこの辺の大陸気候だ。北の方から霧が来ると、なおさらそうだ。
その肌寒い暗黒の中に突っ立ってニーナの短剣をヒイヤリと凝視しているうちに僕は、いろんなことがしだいしだいにわかってくるように思った。今の今まで逃げ出そうと思っていた恐ろしい問題の渦の中へ、正反対にグングン吸い込まれかけている僕自身を発見したように思った。そうして思わずブルブルと身ぶるいをしたのであった。
……ニーナは僕が、このサボテンの秘密を看破った……もしくは看破りかけているものと思い込んで襲撃したものに違いない。このサボテンの中に、ある恐ろしい秘密が
……しかも……もしそうとすればニーナの家族は、この司令部の上の四階に陣取って日本軍最高幹部の厳重な監視を受けながら、どこかと内通しているに違いないことが考えられる。そうしてその内通の相手といえば、目下のところ、赤軍以外にありえないことが、あらゆる方面から推測されるではないか。
……そうしてまた、そうとすれば、星黒、十梨の両人の非国民、非軍人的行為と、オスロフの陰謀的性格と、その双方からいろいろな秘密を聞いているらしい銀月の
……捜索本部はむろん、夢にもソンナ方向へ視線を向けえないでいるのだ。世界じゅうにタッタ一人おれだけが気づいていることを彼らは……といってもまだ正体がハッキリしていないのだが……少なくともニーナだけはチャンと看破しているのだ。だからおれをタッタ一突きで沈黙させようとしたのだ。
……おれは自分でも気づかないうちに、今までの興味本位とは全然正反対の意味で、是非ともこの事件を解決しなければならない立場に追い詰められてしまっていることがタッタ今わかったのだ……。
……ニーナの一撃によって……。
僕はこうした事実に気がついてくるにつれて全身を縮み上らせた。短剣を握ったままそこいらの暗黒を見回した。今にもどこからかピシリピシリとニッケル弾丸が飛んできそうな気がした。話に聞いた名探偵の勇気なぞは思いもよらない。ただゾクゾクと襲いかかってくる強迫観念を一生懸命に我慢しながら、できる限り神経を押付け押付け本階段を降りて行ったが、その途中からまた気がついたので、スリッパの足音を忍ばせて、用心しいしいソロソロと四階の廊下へ降りた。なおも息を殺しながら、ニーナの家族の部屋の前に来てみると、
……おかしいな。こんなに早く寝るはずはないが。それともいないのかな……。
と気がつくと僕はまたも一つの不思議に行当った気持になってドキンとした。
……僕はその時に驚いたか、怪しんだか記憶しない。その神秘めかしい赤い、微かな光線をドンナ性質の光線と判断したかすら思い出せない。気がついた時には、その光線の
窓掛の隙間から辛うじて
その中で
僕は何もかもない、
僕の頭の中から判断力がケシ飛んでしまった。夢にも想像しえなかった事実が、あまりにも突然に眼の前に実現されたので……。
むろん僕は、そうした頭の片隅でニーナのことを考えないではなかった。捜索本部の連中が、これだけの断固たる行動をとりながらニーナだけを見逃している。自由行動をとらしている……という不可解な事実に気づいているにはいた。しかし、そんなことを突き詰めて考えてみる余裕がその時の僕の頭にどうしてありえよう。……ダラララッ……という
ところが僕の予期に反して、そんな物音はなかなか聞こえてこなかった。ただ左側の窓掛の陰から、微かな虫の啼くような日本人の声が、時々断続して聞えてくる。それに対して背中を向けているオスロフが栗色の
……ところがこの時のこうした僕の推理や想像のほとんど全部が間違っていた。……同時に日本の官憲がこの時にオスロフに対してとっていた、こうした態度がはなはだしい見当違いであった……僕とおんなじような推理の間違いから、オスロフが赤軍に通じているものとばかり結論しきっていた官憲は、この時シベリアじゅうで行なわれた過失の中でも最も大きな一つを演じかけていた事実がズット後になってニーナの実話を聞いた時に、身ぶるいするほどうなずかれた……といったらこの事件の関係者は皆ビックリするであろう。おそらく僕の虚構だといって、極力打消そうとするであろう。
しかし僕はかまわない。虚構でも何でもいい。話の筋を混乱させないために、僕が後から聞き出した事実の真相なるものをここにサラケ出しておく。
僕が後で当番係の上等兵や、官憲の取調べを直接に見聞したニーナから聞き集めた話の要点を総合すると、二重ガラスの中の事件の正体は、あらかた次のようなものであった。
僕が銀月から帰って来た時に、捜索本部がガラ空きになっていたのは当然であった。
きょうの午後一時半頃(僕が出て行ってから約一時間後)に、先刻の
一、明朝までオスロフの雇人を一歩も外へ出ないように命じて監視せよ。万一彼らの態度に少しでも怪しいところがあったら直ちに、歩哨と協力して引っ捕えて、四階の廊下に立っている憲兵上等兵に引き渡せ。
一、万一危急と思われる事態を発見するようなことがあっても絶対に、銃剣を使用したり大声を発したりしてはいけない。沈着した態度で歩哨の前の街路に出て、帽子を脱いで上下に二、三度動かせ。
一、御用商人、オスロフの知人、その他セントラン宛の訪問客があった場合、および、電話がかかってきた場合にはこの部屋の扉をノックして自分(古参中尉)の指揮を仰げ。歩哨と協力して何者も司令部内に立ち入らせないようにせよ。
一、その他、司令部内の状況に関しては、一切の秘密を厳守してできる限り注意を払いつつ、かつ、できる限り平常どおりの勤務状態を装いつつ明朝まで徹夜せよ。(以上)
といったような奇妙な命令を下すと、自身は窓の
その上等兵が
オスロフは、そんなこととは夢にも知らないまま、二週間ばかり滞在していた露中国境のボクラニーチナヤから汽車に乗って帰って来た。ほど近い停車場から自動車に乗って新聞を読み読みヤムスカヤの近くまで来ると、偶然に故障を起したので、気軽に車を降りてセントランまで歩いて来た。妻子の出迎えを受けて三階に上ったのが三時ちょっと前であったというが、その時すでに、極度の緊張裡に
その手紙の内容は大略次のとおりであったという。(細かい点はニーナも記憶していなかったが……)
一、オスロフは欧露における過激派軍の優勢に鑑み、今年の春以来、白軍を裏切って赤軍に内通し、ハルビン奪取の計画を立てていたところ、すでにその気勢が十分に熟し、優秀なる赤軍スパイを全市に配備して日本軍の動向と配備を詳細にわたって探らせている形跡がある。キタイスカヤにある日本軍司令部の秘密命令が、時々赤軍に
一、オスロフは日本軍が、アメリカ上院の圧迫外交に押されて、遠からずシベリアを引き上げるに違いないといいふらしている。日本軍がハルビンに永久的な軍事施設を施すべく準備をしているというのは、不意打ちに撤兵を断行するための逆宣伝にすぎないとも強弁している事実がある。これは日本軍の権威を無視して自分の勢力を張る一方に、人心を動揺させて一仕事しようと試みている一種の策動と認めうべき理由がある。
一、今度の十五万円事件も実にオスロフが黒幕となって決行したものである。彼はこの十五万円をもって家族をどこかに避難させると同時に、一挙に日本軍の司令部を
右御参考までに密告する。
ところでその審問には、武装した捜索本部の全員のほかに、オスロフも顔も知らないらしい、相当の年輩をした背広服の二人が立ち会っていたそうである。二人とも額が白くて、露語が達者だったというからたぶんそれは日本軍の参謀か何かであったろう。実に鋭い突っ込み方で、さすがのオスロフも最初のうちは少々、受太刀であったという。
しかしそのうちにだんだんと様子がわかってくると、そこは千軍万馬の陰謀政治家だけあって、グングンと二人に逆襲し始めた。
一、
一、自分の家族は御覧のとおり、軍事や政治には全然無理解な老人と、病人と、女の児である。たとえ拷問にかけられても知らないことは知らないというよりほかはないばかりでなく、そんな正体の知れない一片の投書によって、諸君が
一、自分が日本軍と緊密な握手をしている
一、いかにも日本軍の機密に関する事項が、赤軍に洩れているのは事実と認むべき理由がある。三週間ばかり前にも、畑の向うのホルワットと病床で面会した時に、同人からコンナ話を聞いた、「オスロフ君。君の手を通じて白軍に渡るべき日本軍の秘密
一、何を隠そう今度の旅行は、その事実を実地調査に行ったものにほかならない。日軍と白軍に対する自分の信用を、
一、もし御面目に関しないならばモウ一つ別にハルビン市街の明細図を持って来ていただきたい、私が今日まで眼をつけているスパイの隠れ家らしい建築物の位置を一々指摘して印を付けて差し上げるから。但し、その中には貴官方が非常に意外とされる建築物があるかもしれないからあらかじめ御立腹のないように、お断わりしておきます。
一、なおそれからついでに、十五万円事件の真相は、この密告書の出所と一緒に、おおよその見当がつくように思う。第一、この文章の語法が、ロシア人らしくない上に、日本贔屓の白系露人なぞと、いうまでもない無用の断わり書がしてあるところから察すると、これは一種の敵本主義から出た
といったような調子でスッカリ煙に巻いてしまったものだという。
もっともこんなふうに
ところでその説明を聞いていたニーナはその間じゅう巨大な父親の傍へヘバリついて、それとなく図面をのぞいていた。そうして時々、話の切れ目切れ目に、
「サボテンが枯れる」
といっては父親からにらまれたり、鉛筆で頭をタタカレたりしていたそうであるが、しまいには泣き面になって、
「……ねえ……お父さんてばよう……水をやりに行っていいでしょ。じき帰って来ますから……ねえいいでしょう……お父さん……」
と甘たれかかるので、母親が無理に引き取って自分の
そのうちにオスロフの説明がだんだん細かになってきて、赤軍スパイの活躍の中心は、どうしてもこのハルビン市中の、しかも司令部の中か、もしくはその付近になくてはならぬ。十五万円事件というのも、そいつらの手で企まれたものではないかと疑われる節がある。これは自分が、奉天に滞在している留守中に発せられた司令部の命令が洩れている事実や、今度の不在中に、十五万円事件が起ったことによっても、
「……サボテンが枯れるよう。水をやりたいよう……」
とオイオイ大声をあげ始めたのであった。
さすがの参謀や憲兵たちも、これにはみごとに引っかかったらしい。あいにくとサボテンの栽培法に通じた者が一人もいなかったばかりでなく、もはや、外がまっ暗になりかけているのだからドンナに聞き分けのいい子供でもお腹が空いているに違いない。それだのに自分のことは忘れてサボテンのことばかりいっているのだから、かなりのイジラシイ要求だと考えられたであろう。にらみつけていたのは話の邪魔をされた父親だけで、お
参謀らしい背広服の二人はそこで、何かしらヒソヒソと打合わせをしていたが、やがて若いほうの一人が舞踏室の扉をあけて、下へ降りて行った。それはたぶん、上官と電話で打合わせに行ったものと思われたが、間もなく帰って来ると、
「今夜の十時に山口少将閣下がここへ来られて再審問をされるから、それまでに皆、食事をすましておくように……それからその子供のことは別に許可を得なかったが、すぐに帰って来るなら出してもよかろう。そんなに泣かれちゃ第一審問ができない。いいかね。ニーナさん。すぐに帰って来るんだよ。御飯が来るんだから……」
といったようなことで、ニーナが外へ飛び出したのが八時半頃であったという。そこでニーナは水をやるふりをしいしい、この大事件を赤軍に報道すべく、大急ぎでサボテンを並べ換えていると、突然に裏
サボテン通信はオスロフ一家の知ったことではなかった。彼女一人が、赤軍に頼まれて極秘密のうちに受け持っていた仕事だったのだからたまらない。同時にオスロフを密告したものこの当番卒に違いない。ことによるとこの当番卒は、この司令部の中でも一番恐ろしい任務を帯びている密偵かもしれないとまで思い込んだ彼女は、僕に気づかれないように煙突の陰を出て、張番の憲兵の眼を忍びながら四階の物置に潜り込んだ。その奥の古新聞の
彼女は、そこで息を殺して様子をうかがった。そのうちに同じ憲兵が、今度は階下の方を探すべく駆け降りて行ったらしいので、やり過しておいて階段を飛び出して、前後に気を配りながら僕を狙い始めた。そうしてイヨイヨ暗くなったのを見すまして、飛びかかって来るまでの間が前後を合わせて約一時間……それが失敗して、裏階段から行くえをくらましたのが向いの家の大時計によると九時半前後であった。
ところがその三十分ばかり前の九時前後と思われる時分に、モウ一つニーナにとって致命的な事件が発覚していった。それは向い側のカポトキン百貨店を閉鎖さして、変装の軽機関銃隊を詰め込んで、万一を警戒させているうちに、展望
その青年は案外、意気地のない男であった。自分の頭の周囲にズラリ並んだ銃剣を見まわすと一も二もなく手を合わせて泣き出しながら、白状しなくともいい事までしゃべってしまった。
彼はアブリコゾフという貴族出の美青年で、相当の学問があった上に一種の奇形的な頭の
けれども二人は話をすることは愚か、手紙のやり取りすら思うようにできなかった。アブリコゾフの背後には赤軍の監視の眼が光っているし、ニーナの陰には祖母と母親と、相当の年輩の女が二人もついているのでどうにもしようがなかったが、そのうちにアブリコゾフのほうが思いついて、当時大流行のサボテンを応用した暗号通信法を、
ところが最近に至って日本軍の司令部が、ニーナの足の下に引っ越して来る段取りになると、このサボテン通信の甘ったるい内容が
「オスロフが殺されそう……全赤軍のスパイ網が
という意味の途中半端な暗号通信を伝票の裏面に書き取って、下をのぞくと同時に帽子をウシロ向きにした通行人に投げつけて、その続きを待っていたところであった……
この告白を聞いた軍人たちが「テッキリこれはオスロフの仕事」と思い込んだのは無理のない話であろう。そこでこの報告が一直線に特務機関に飛び込む。
「猶予なくオスロフ一家を捕縛せよ。事態切迫の
といったような命令が出る……という順序になったものであろう。ちょうど僕を殺し損ねたニーナが裏階段を駆け降りて行く姿を、いつの間にか帰って来ていた憲兵が認めたので、またも独断で追いかけて行った留守中に、食事を終ったばかりのオスロフ一家が、有無をいわさず椅子に縛りつけられて拷問されることになった。そうして、その拷問が始まったばかりの光景を、僕が外からのぞいていたのであった。
だからその瞬間は、後から考えると実に恐ろしい瞬間であったのだ。単に眼の前の光景が恐ろしかったばかりでない。ハルビン市に
事実、僕は何も知らなかった。否、そんなことを察するだけの余裕がなかった。二重ガラスの中の生きた活人画とも形容すべきモノスゴイ光景を、タッタ一眼見ただけで僕はモウ、驚きと恐怖を通り越した心理状態に追い上げられていた。二重ガラスの外側に顔の半面を押しつけながら今にも左側の窓掛の陰から……ダダーン……という大音量の火花が、
しかし僕がそうしていた時間は、ものの五分間と経過しなかったであろう。間もなく更に更に驚くべき事件に僕は襲われた。その固くなっている僕の右手から突然に、ニーナの短剣を奪い取って行った者があった……と思って振り返る間もなく、誰だかわからない疾風のような人影が、ヒラリとまっ暗な屋上の方へ消え失せて行ったのであった。
その時に僕は何かしら奇妙な声をあげたように思う。しかしその声は幸か不幸か、舞踏室の内部には反響しなかったらしい。
僕は気が遠くなりかけたようであった。舞踏室内の光景も何も全然忘れてしまっていたようであった。そうして間もなく、何者かが飛びかかって来るような次の瞬間を、暗黒の廊下で想像すると、思わず身を翻して長い廊下を一走りに、四ツの階段を駆け降りて、地下室に転がり込んだ。そこでやっと少しばかり気を落付けて、冷め切った
だから僕はオスロフ一家の運命が、それから先ドウなったか知らない。ただ……その翌る日からセントランの雇人が、
……とはいえオスロフの一家がコンナ悲惨な運命の
……といったら僕がトテもすばらしい名探偵に見えるだろう。または性懲りもなく、この事件の外殻を包む探偵趣味の第二層へ、突入して行った勇者とも思えるだろう。……ところが実は、それどころの
これは気の弱い、神経質な僕が、永年
但し……僕はその時までサボテン暗号通信を、オスロフの指導を受けたニーナの仕事とばかり思い込んでいたものであった。アブリコゾフの捕縛事件を全然知らなかったのだから……。また、ハルビン市内の大警戒の状況も、翌日の朝になってから上等兵に聞かされて初めて驚いたくらいのことであった。だから僕は、その時までに見聞した十五万円事件とか、銀月の
それはその「臆測の中の臆測」ともいうべき最後の結論を先にして説明すればすぐにわかる。
この事件の中心になっている者は誰でもない。やはりあの銀月の女将に相違ないとおもえるのであった。この事件の表面に交錯している直線や、曲線の出発点を求心的に探って行くと、縦から見ても横から見てもあの女将の魅惑的な、自由自在の表情の上に落ちて行くのであった。すべてを操る眼に見えぬ糸が、彼女の白い指の先に帰納されてゆくのであった。
彼女に対する僕の第一印象は誤っていなかった。彼女はハルビンと名づくる北満の美果の核心に潜み隠れている一匹の美しい毒虫であった。その果実の表面に、一見別々に見える巨大な病斑を描きあらわしている……。
彼女はさすがに、ハルビン一流の豪華建築の女主人公として、人気の荒っぽい北満の各都市に雄見するだけの、アタマと度胸を持っている女性であった。彼女はその冷静、透徹した頭脳でもって、変幻極まりない当時の北満の政情の動きを予測して、銀月の経営方針と一致させることを怠らなかった。銀月と名づくる豪華壮麗な浮草の花を、どちらの岸に咲かせようかと、明け暮れ
しかしその間にタッタ一人、彼女だけは窮しなかった。彼女は、彼女一流の知恵を絞って、どちらに転んでも間違いのない方針をとることにきめた。日本軍と一緒に引き上げるにしても、または踏み止まって第二期の発展を計画するにしても、決定的に必要な軍機の秘密と、資金をつかむ手段を考え始めた。そうしてその解決を女性のみが実行しうる非常手段に訴えた。
彼女はオフロフと星黒の双方に彼女自身を任せたに違いないのだ。そうしてその結果オスロフからは軍機の重大秘密を……また、星黒からはその正反対な機密事項と同時に、多額の資金を獲得したものに相違ないのだ。しかもその機密と巨万の金とが、これを逆に利用する時は、同時に二人を別々にノックアウトするに足るほどの恐ろしい性質のものであったことはいうまでもない。
しかし極度に用心深いと同時に、あくまでも機敏な彼女は、ここでモウ一つ感覚を緊張さした。問題の根本になっている日本軍の進退についてオスロフの予測と、星黒の
ところが、そこへ司令部の内情と、捜索本部の形勢と、ハルビン市内の実情に通じているらしい僕が、公用でやって来ることを早くも聞き知ったので彼女は、迅速に準備を整えて待ち構えた。そうして何食わぬ顔で応接間に引き入れて、さり気ない問答をしながら様子を探っているうちに、僕が不用意に
彼女は大胆にもこの推測を確信することにきめた。そうしてすぐに手を回してオスロフを排斥にかかった。しかもその排斥の手段たるや、古来の女流政治家とか毒婦とかいう連中が、必ず一度は使ってみることにきめている世にも冷血、邪悪な逆手段であった。彼女はオスロフから軍機の秘密を聞き出した事実を、逆に利用した
僕はこうして推理とも想像ともつかない……もしくはその両方をゴッチャにした怖ろしい結論を、ホコリ臭い毛布の中で長いこと凝視していた。そうしてオスロフ一家の運命が、全然オスロフの自業自得であると同時に、全然僕の責任でもあるという不思議な結論の交錯を、何度も何度も考え直してみた。
それからモウ一歩を進めた万一の場合に、銀月の女将、富永トミの致命的な秘密をつかんでいる僕……あの邪悪な露語の誣告文が、僕の想像どおりに彼女の手から出たものに相違ない事実が、何らかの理由で彼女の立場を危うくしそうになった場合、最も重要な生き証拠となるかもしれない僕……彼女がオスロフと星黒から軍機の秘密を聞き出していることを知りすぎるぐらい知っている僕を、彼女がドンナふうに処理するか……という問題に考え及んだ時、僕は思わずドキンとして寝返りを打たせられた。頭を抱えて縮み上らせられた。僕の想像が的中しているとすれば、彼女がキットそうするに違いないであろう手段と、それに対抗する手段を、ああかこうかと取越苦労が、いつの間にかタッタ一つ、最後に残る重大な疑問に向かって集中してきたのであった。……この事件に対する僕の臆測の全体が、確実であるかないかを決定するものらしく見えるタッタ一つの疑問の
それはニーナの短剣が描きあらわした不可思議現象に対する疑問であった。
ニーナの短剣に関する不可思議現象……この事件の中心の中心とも見るべき時間と、場所を
……ニーナの短剣を奪った者は、僕の味方か……敵か……。
という簡単な疑問が、この事件の全体を解決する最後の鍵としか思えなくなったのであった。同時に、その手によって助けられるか、殺されるかが僕の運命の分れ目だとしか考えられなくなったのであった。
こうした
毛布の中で縮こまった僕は、この幻覚的な結論を解決すべく、あらん限りの想像を
そのうちにニーナの顔や、銀月の
あくる朝はばかに早く眼が
気がついてみると当番の連中は、いつの間に帰って来たものか、僕の左右にズラリと枕を並べてグーグーと眠りこけていた。
便所に行ったついでに
歩哨に聞いてみると司令部の連中はツイ今しがた、当番連中を引き連れて、どこからか帰って来たところだ。昨夜は何らの異状もなかったという。
僕は何だがばかにされているような気持になった。しかし、そうかといって文句をつけるところはどこにもないので、少々睡いのを我慢しいしい捜索本部の掃除をすましたが、そのついでにチョット四階のオスロフの居室の様子をのぞきまわってみると、どの部屋もどの部屋も窓掛が卸されて鍵が掛かっている上に、向う側のブラインドが卸してあるらしく、まっ暗で何も見えない、そのシンカンとした気はいに耳を澄ましているうちに、またも、昨夜と同じような寒気がしてきそうになったから、あわてて階下へ駆け降りた。
下へ降りてみると食事がモウできているのに驚いた。むろんこれは、炊事係が入れ代ったせいであったが、その時に初めてそうした事実に気がついた僕は、今更のようにオスロフ一家がどうなったかと考えて
そのうちに上等兵が起き上って煙草を吸い始めたので、早速、昨夜からの出来事をコッソリ話し合ったが、双方が双方とも、眼を丸くして驚き合ったことはいうまでもない。それからそれへと煙草を吹かしながら声を潜めているうちに、いつの間にか時間が経ったらしい。突然に、いつもと違った長靴の音がボカボカボカボカとコンクリートの階段を降りて来た……と思ううちに、いつも間に出勤したものか、憲兵上等兵の一人が僕の顔を見るなり、
「オイ。何しとるんか。早く来んか」
と階段の途中から怒鳴った。またも大事件らしいのだ。
僕は退屈だった昨日の午前中が恋しくなった。タッタ一晩、考えただけで頭がくたびれてしまったものらしい。実に意気地のない名探偵だ。……と自分で思い思い上衣を着て二階へ駆け上がって、捜索本部の中を一眼見ると、思わずサッと緊張してしまった。……十梨通訳が帰って来ているのだ。星黒と一緒に行くえをくらましていた十五万円事件の片割れが……。
十梨は僕と向かい合った、室の隅に近い
……これはどうしたことだろうか……と思う間もなく僕は、曹長の命令で一階へ飛んで降りた。まだ残っているオスロフ家の冷蔵庫の中から白パンを半斤と、牛乳を二、三本持って来た。そいつを十梨の鼻の先に突きつけると、ヤット気がついたらしかったが、それからホコリだらけの
僕は十梨の一語一句に耳を澄ました。昨夜、僕が毛布の中で築き上げた理屈と想像の空中楼閣は、十梨の出現によってアトカタもなく粉砕されるかもしれない……そうして昨夜の事件と、十五万円事件とを同時に解決するホントウの鍵が、十梨の口供の中から発見されるかもしれないのだ。……ことによるとニーナの短剣の行くえまで推定されえないとどうしていえよう。……しかも、それを探り出すのは僕の正当防衛を意味する大きな権利に違いないのだ。世界じゅうに僕一人が持っている秘密の特権……といったような興味を極度に高潮させて、胸をドキドキさせながら、ボンヤリした十梨の表情を凝視していた。
十梨の口供は、いかにも弱々しいそれこそ夢うつつのような声で続けられた。
「御承知か知りませんが、私はこの間から、めんどうな通訳の仕事でスッカリ疲れておりましたので、土曜日の晩に外出を願いまして、日曜日の朝早くから、
ところが、第八区の筋かい道を通っておりますと、背後から私を呼ぶ声がします。振り返ってみますと、中国馬車の中から星黒主計殿が顔を出されました。いつものとおりの服装で、
『どこに行くのか』と問われましたから『傅家甸へ』と答えて敬礼しますと『そうか、おれもそちらへ行くからこの車に乗れ』といわれましたので一緒に乗って行きました。
ところがまだ鉄道踏切を超えないうちに、主計殿がニコニコ笑いながら『お前は松花江の下流へ行ったことがあるか』と問われましたのでチョット困りました。私はロシアの地理ならば内地で研究しておりましたおかげで少々自信がありますが、満洲方面は後まわしにしておりましたので西も東も知りません。ことに当地に来る早々の八月の始めから翻訳ばかりしておりまして、一歩も市街へ出ずにおりましたのでどの道がどこへ行くのか、どの方向にドンナ町があるか、ましてどこいらから先が、馬賊や赤軍のいる危険区域になっているのか、全然白紙も同様なのです。ですから万一案内でも頼まれては大変と思いましたので『イイエ』と答えますと『そうかおれは今から行くところだ。ロシア人の友達と一緒に行く約束をしていたんだが、そいつが
中国馬車は傅家甸を抜けて東へ東へと走りました。腕時計を修繕に出しておりますので時間がわかりませんでしたが、同じような草原や耕地の間をずいぶん長いこと走りましたので、ツイ翻訳の疲れが出たのでしょう、ウトウトとしておりますと、正午近いと思う頃から、小さな川の流れに沿うて行くうちに、広い広い草原の向うに、松花江の曲り角が見える所まで来て馬車が停まりました。
主計殿はどこで馬車を降りられました。そうしていつの間に勉強されたのか
私はすぐ鼻の先に見えている河岸が、案外遠いので弱りましたが、それでも二十分ぐらい歩きますと、すこし小高い、見晴らしのいい所へ来ました。あたりに人影も何もありませんでしたが主計殿が『イヤ御苦労だった。ここらで休もうか』といって腰を卸されましたので、私も草の中に
『一杯飲め』といって差し出されたのを見ますと封印したウイスキーの小瓶でした。主計殿も新しいのを持っておられましたので、私は遠慮なしに
私はトテモいい気持になってしまいました。まっ青な空から涼しい風がドンドン吹いてきます。コーヒー色の河に区切られた緑色の海みたような草原が、見渡す限り雲の下で大浪を打っております。その向うを薄黒い船が音もなく
私はその時に火事の夢を見ておりました。旧ハルビンのホルワット将軍の
私はその時に初めてドキンとしました。
『軍服を燃やすのですか』と思わず大きな声を出しましたが、主計殿は返事をされませんでした。ただ私を振り返ってジロリとにらまれただけでしたがその顔つきのスゴかったこと……
『主計殿帰ろうではありませんか』
私は思い切って、そういいかけてみましたが、まだいいきってしまわぬうちに、スックと立ち上った主計殿は、煙の向うからギラギラ光る
『オイ。十梨。おれはお前に頼みがあるのだ。黙ってそのリュクサックを担いで三姓まで
私はモウ一度そこいらを見回しましたが、河を通る船すら見えません。太陽がズット西に傾いたせいでしょう。ハルビンの町が黒い一線になって上流の方向に見えておりました。
『おれは司令部の金を持って逃げて来たんだ。明日の今頃は大騒ぎをやっていると思うんだがな。ハハ……。幾日かかるか知らんが三姓まで来てくれたら、持って来た金の三分の一だけ分けてやる。それでも五万円だ。悪くないだろう。嘘じゃない。このとおりだ』といううちに主計殿は、右手のピストルを私の方に向けたまま、左の手をリュクサックにかけて口を大きく開かれました。そうして底の方にある新聞紙包みを片手で破いて、チラリと見えた分厚い札束の中から、よい加減に抜き出した二十円札を口にくわえて数えられました。
『三百二十円ある。当座の小遣いに分けてやる。よく調べてみよ。一枚も贋札なんかないから……』
『ありがとうございます。行きましょう』
と私は答えました。容易に逃げ出せないと思いましたから、わざと金に眼が
『ウム。一緒に飲んだ馴染がいがあるからな。無茶なことはせぬつもりだが……おれもタッタ一人の仕事だからナ』と星黒主計殿は独言のようにいわれました。
私は黙ってリュクサックの
そのうちに日が暮れて、五日ばかりの細い月が出ておりましたが、間もなく引っ込んでしまいましたので、私は星黒主計殿の懐中電灯で足元を見い見い草原を分けて行きました。すると、また、そのうちにリュクサックがたまらなく重くなってきましたが、それでも私の姿だけが懐中電灯に照らし出されているのですから、逃げる素振りなどミジンも見せられません。三姓に着いたら殺されるのかもしれない……とも思いましたが、いまさらどうにもしようがない私でした。
そのうちにどこだかわかりませんが、松花江の向う岸の大きい星空の下に、人家の灯火がチラチラ見え始めますと、荷物を担いでいながらもかなりの寒さを感じてきました。
『どこにも泊まらないのですか』といいながら振り返りましたら、
『ウム。中国人の家があったら泊まろう』といわれましたが、そこいらは人家の影すら見当らない、河沿いの高原地帯らしく見えました。
それからまた一里も歩きますと、肥った私はもうヘトヘトに疲れてしまいましたから、立ち止まって暗闇の中を振り返りました。
『ここいらで休まして下さい』と悲鳴をあげますと、主計殿も疲れておられるらしく案外柔和な声で、『どうだな。人家はかえって物騒かもしれん。今夜はここで野宿とするかな』そういわれるうちにリュクサックを下ろした私は、あんまり寒いのでガタガタ震え出しました。『主計殿。あそこに小屋が見えますよ』
二、三丁向うの河岸に歪んだ掘立小屋らしいものが見えているようでした。主計殿もうなずかれました。
『ウンちょうどええ。行ってみよう』
近づいて見ますとそれは渡船場の番人小屋でした。一間幅に二間ぐらいのごく粗末な板造りで、向う側の破れ穴から松花江の水の光が見えました。
『中にはいってみよ』と主計殿が命令しながら懐中電灯を私に渡されました。そうして自分は拳銃を持ったまま、家の背後にまわって小便をしておられるようです。
……今だ……と私は胸を躍らせました。そのまま家の中にはいってリュクサックをドシンと卸して、その上につけ放しの懐中電灯を乗せました。すぐに戸口からはい出して、丈高い草の中を下流へ十間ばかりはい込みましたろうか……。
『オイ。十梨。どこにいるのか』
という声が風上から聞えました。拳銃を片手に持った向う向きの背広姿が、上流の方を透かしている
……ズターン……ズターン
という大きな音が私の肩を追い越して行きましたので、私は夢中になってしまいました。帽子はその時に落したのでしょう。草の中をこけつまろびつして行きましたが、そのおかげで弾丸が当らなかったのかもしれません。三発目の爆音がかなり遠くに聞えましたので、チョット振り返って見ますと、四、五十メートルばかり離れて追いかけてくる黒い姿が見えました。
私の左手は
左右から生えかかってくる草を押分け押分け三十分ばかりも走りますと息が切れてたまらなくなりましたので、倒れるように草の中へ座りましたが、座ってみるとまた寒いのに驚いて立ち上りました。そうして、寒さと、空腹と、睡たさとに責められながら夢うつつのように当てどもなくさまよって行きました。
翌る日の正午頃、どこかわからない広い通りへ出ると間もなく中国人の部落に着きました。しかし露語が通じませんので手真似で
……ハイ。もらったお金はこれだけです。……二十円札十六枚です……ズボンのポケットにはいっていたのです。……疲れておりますからモウ一度よく睡らして下さい」
そういううちに十梨はモウ、ぐったりと
僕はいまでもそう思っている。
この十梨の言葉を疑いうる者は、よほどの名探偵でもない限り絶無であろう……と……。
十梨は真実、正体もないくらい疲れていたのだから。……そうして恐ろしい憲兵の前に、絶望と無力とを一緒にした身体を
その中でも僕はこの話を最も深く信じた一人だったらしい。……というよりも十梨の立場に衷心から同情を寄せていた一人……と説明したほうが適切だったかもしれない。実に意外極まる口供のために、昨夜、毛布の中で、あれだけ苦心して築き上げていた推理と、想像の空中楼閣をドン底から引っくり返されながらも、十梨から煙草を拒絶されるとすぐに一階へ飛んで降りて、熱い渋茶を一杯、酌んで来てやったくらいであった。
憲兵連中もむろんのことであった。彼らの顔は十梨の口供の途中からみるみる輝き出していた。捜索本部が開設されてから三日目に、早くも勝利の端緒をつかんだ喜びを、互いに目顔で知らせ合いながらうなずき合っていた。
十梨が熱い茶を飲み終るのを待ちかねた憲兵中尉は、僕をさし招いて自動車を呼ばせた。一刻も猶予ならんというふうに……そうして早くもスウスウ眠りはじめている十梨を揺り起して、
「オイオイ。十梨通訳。起きろ起きろ。処罰されるのではないぞ。いいか、貴様は殊勲者に違いないが一応現場を調べるまでは許すわけにはいかんからな気の毒だが、ええか」
十梨は揺すぶられながら小児のようにグニャグニャとうなずいた。
自動車が来ると皆立ち上った。何でも全員一斉にやるのが憲兵の習慣らしい。そうしてめいめいは自分の机の
「オイ。当番。モウここへは来んかもしれんが、しかし今二、三日の間、当番を解除することはならんぞ。捜索本部を解散する時にはこちらから通知すると上等兵にいうておけ」
と憲兵中尉が宣告した。
「ハ……モウ二、三日間当番を解除することはならんと上等兵殿にいうておきます」
と
「フフフ。うまいことをするなあ貴様は……フフン。慰労休暇のようなもんじゃ。……ウン。それから新聞紙を一枚持って来い。イヤ封筒がよかろう。一枚でええぞ……」
「ハッ封筒を一枚取って来ます」
といううちに僕は部屋を飛び出して司令部から白い横封筒を一枚もらって来た。皆はその間に玄関に出ていたので、僕は追っかけて、自動車の外に立っている曹長に、封筒を手渡した。
曹長は封筒を受け取ると自動車に乗った。グッタリと顔を伏せている十梨の横に座りながらポケットから札束を出して数え始めたが、三百二十円あることを確かめると「ヨシ」といいながら扉を閉めた。同時に二人の憲兵上等兵が左右のステップに飛び乗ると、旧式のビックがガックリ後退しながらスタートした。その拍子に、札束を横にして封筒に入れようとした曹長の手許が狂って、外側の一枚の裏面がチラリと見えた。
「……アッ……」
と僕はその時叫んだように思う。敬礼するのも忘れて自動車の跡を追っかけようとしたが、追いつけなかったので、まった立ち止まって額を押えた。不思議そうに僕の顔を見ていた
僕は自分の耳を疑わなかった。今、曹長が数えている三百二十円は、たしかに十梨が、机の上に投げ出したソレであった。星黒が、公金の包みの中から引き出してくれたものだと、十梨が説明していた二十円札の十六枚に相違なかった。……しかも同時に僕は自分の眼を疑わなかった。タッタ今、その一番上の一枚の裏面がチラリと見えた瞬間に、その裏面の片隅に二つ並んだ赤インキの
僕はその赤インキの斑点に見覚えがあった。忘れもしない前月の初めに、星黒主計が僕の前で、自分の棒給を勘定しているうちに、誤って赤インキのついたペン先を跳ね返した時に、くっついた斑点だったのだ。
僕は、その時に大急ぎで吸取紙を持って行ってやったので、そのインキの恰好をハッキリと印象している。大きいほうが吸取紙に押えられて象のような歪んだ恰好になっていた。そのお
もし世の中に、同じ形の赤インキの斑点をつけた二枚の二十円札が、絶対に存在しえないものとすれば、あの一枚の札は確かに前月の初めに、星黒主計が自分の棒給として受け取って、旧式な博多織の札入に挟んで、内ポケットに納めた札の中の一枚でなければならぬ。それがまる一か月経った二、三日前の土曜日に銀行から引き出したままの公金の束に挟っている理由は全体にありえない。金扱いの厳格な星黒主計が自分の紙入の中の金を、公金の札束の中へ突っ込むというのは、どう考えても不自然である。
星黒は殺されたのだ。十梨が掘った
オベッカ上手で色男の十梨は、星黒を誘い出して公金を費消さした……その窮況に乗じて星黒に官金を盗み出さ舌。そうしてその金を奪い取ったのだ。そのポケット・マネーと一緒に……。
十梨はそんな事実の一切をくらますために、二日二夜がかりで恐ろしく骨の折れる芝居を打っているのだ。星黒が生き返って来ない限り絶対にわかる気づかいのない芝居を……。
十梨の知恵には頭が下がる。実地検分に行った憲兵は河岸で星黒の軍服の焼残りを発見するであろう。それから河岸の一件屋を検分するであろう。そうして十梨の言葉の真実性を認めたが最後、猛然として三姓の方向に突進するであろう。そうしてその結果は十五万円と、星黒の行くえを、永久に
かくして十梨は官憲の保障の下に十五万円の持主となりうるであろう。
……僕はイキナリ起き上って駆け出したい衝動にかられた。すぐにも憲兵隊に駆け込んで十梨の
あの二十円札は星黒を殺した時に、十梨が奪った物に相違ないのだ。そうして他の持合わせの札と合わせた三百二十円を、正直そうに憲兵の前に提出した一種の餌にほかならないことが、わかりきっているのであるが、しかしこれは僕だけがタッタ一人認めているにすぎないきわめて偶然の事実である。死んだ星黒が生き返ってきて、それに相違ないことを白状しない限り、絶対に確実な証拠とはいえないのだ。こうした証拠の性質を考えないでウッカリしたことを言い出しでもしようものなら、相手が無鉄砲な憲兵のことだから、あべこべにドンナ嫌疑をかけられるか知れたものでない。
そう気がつくと同時に僕は思わずブルブルと身ぶるいをした。この事件を仕組んだ人間の頭のヨサに今一度舌を巻いて感心しないわけにいかなかった。
見たまえ……
つい今しがたまで十梨の陳述によって木端
この事件の背後から糸を操っている者は、やはり銀月の
彼は最初から彼女の手先となって仕事をしていたもので、しかも目下がその大活躍のクライマックスに違いないのだ。彼は、彼が司令部の内情に精通している知識を利用した、事実無根のロシア文を彼女の注文どおりにタタキ出して、一気にオスロフを葬り去る手段を彼女に与えると同時に、一命を
「オイ。上村、手紙だぞ」
こう呼ばれた僕は、ビックリして寝台の上に起き上った。見ると眼の前に上等兵が立っている。
「昼間から寐る奴があるか。どこか悪いんか」
「ハ。すこし風邪を引いたようです」
と答えながら僕は手紙の上書を見た。「ハルビン、第二公園裏、銀月事、富永トミ方、阪見芳太郎──電二七……」とゴム印が捺してある。
前文ごめん下さいませ。先日は失礼いたしました。早速ですがその節お忘れになった銀側の巻煙草入れを、
という邦文タイプライターの文句がその中味であった。
「何だ。貴様は銀月なんぞへ行って遊んだことがあるのか」
と上等兵は眼を
「イーヤこのあいだ公用でタッタ一度行ったことがあるきりです」
「その時に忘れて来たんか」
「そんな記憶はないのですが……銀の巻煙草入れなぞ持っていたことはないのですが……」
「ハハハ……いいじゃないかもらってきたら……」
「外出してもいいでしょうか」
「捜索本部は引き上げたんじゃないだろう」
「ハイ。モウ二、三日当番を解除しないようにと中尉 殿がいって行かれました」
「フーン。そんなら外出はお前の勝手次第じゃろ。おれの権限ちゅうわけじゃあるまい」
「ハイ。それじゃこれから出かけて来ます。すこし買物がありますから」
「また書物買いか。まあチットおもしろいやつを買うて来いよ。読んでやるから。ハハハ……」
と冗談をいいながら上等兵は出て行った。
僕はすぐに外出の支度を始めた。しかしそれは上等兵の手前だけで、実は息苦しいほどの気迷いの中に
……正直のところ……僕は青天の
見たまえ……僕の想像が、想像でなくなりかけているではないか。
……こうした人知れぬ手段で僕を引っぱり出して片づけようとしている……もしくはこの事件に一と役買わせようとしている……らしい彼女の計画が、この手紙の書きぶりを通じてアリアリとうかがわれるではないか。
……彼女は僕が、兵卒らしくないアタマの持主であることを、タッタ一眼で看破しているのだ。同時に彼女は僕が、この事件に関する幾多の重大な秘密を握りながら、野心満々の
そう気がついた僕は、猶予なくこの手紙を持って特務機関の参謀のところへ行こうかしらん。そうして一身の処置を仰ごうかしらん……と思い思い震える手で
……これはおれみたいな人間の手に合う事件じゃない。いくら文学青年でも、兵卒は兵卒の仕事しかできないものなんだ。そればかりじゃない。この間、銀月の応接間でウッカリ軍機の秘密をしゃべっている以上、おれはモウ国家の罪人じゃないか。自訴して出る資格は十分にあるのだ……。
といったような事実に後から後から気づきながら、帯剣の尾錠をギューギューと締め上げていた。
おそらくその時の僕の顔は血の気をなくしていたであろう。
それから先のことが僕としては実に書きにくいのだ。何とも申訳ない、面目ないことばかりが連続して起って来るのだから、なろうことなら割愛したいのが山々だが、しかし、それを書くのがこの遺書の眼目なんだからしかたがない。
眼の玉の飛び出るような料金を取られながら、格別驚きもせずトルコワヤ?の理髪屋を出た僕は、ショーウインドをのぞいたり、のろい貨物車に遮られている踏切を眺めたり、公園の劇場の看板を見上げたりして長いこと考えたあげく、ついフラフラと銀月の玄関に立ってしまつたのであった。
その時の僕の気持は僕自身にも記憶していない。しかしいずれにしても持って生れた
もちろんそれは実にタヨリナイ雲をつかむような想像……というよりも、むしろ空想に近いヤマカンであった。非常識というよりもむしろばかばかしいくらい情ない「空頼み」式の心理状態であった。けれどもその時の僕としては、そうしたヤマカン式の「空頼み」よりほかにたどって行く道がないのであった。この疑問を解決してから自首して出ても遅くはない……この疑問を解決するためには何もかも犠牲に供してもかまわない……といったような絶体絶命の気持になったまま色ガラスと、茶色の化粧
それはたぶん午後の二時か三時頃であったろう。間もなく誰か奥へ知らせたものらしい。奥の方から昨日のとおり水々しい
それから僕はその夜の十一時頃まで一歩も外へ出なかったのだ。銀月の大建築の中でも、これがハルビンの市中かと思われるくらいもの静かな、茶室好みの粋を尽した秘密室のみごとさと、調度の上品さと、それにふさわしい水ぎわだった女将の魅力に、隙間もなく封じこめられていたのだ。東洋のパリを渦巻くエロ、グロのドン底の、芳烈を極めた純日本式情緒を満喫していたのだ。
もちろんそれはこちらから注文したわけではなかった。しかし昨日から一生懸命になって突き詰めてきた気持が、生れて初めて口にした
そうしてその気持が更に女将の技巧によって解放されると、いよいよスッキリとした、
しかも女将はその間じゅう、一度も事件に触れた話をしなかった。だから僕も銀の煙草入れの話なんかオクビにも出さなかった。これが銀の煙草入れと思っていたから……。
二人はお互いの身の上話を、おもしろおかしく打ち明け合った。平生無口の僕が妙にオシャベリになって今までのなげやりな生活の話を、なげやり式にブチマケたのに対して女将は、長崎を振出しにして東京、上海と渡り歩いて来た間に経験したいろいろな男の話をして聞かせた。そうして年の若い割に女に冷淡な男は、年を
「それじゃ十梨が可哀そうだよ」と口元から出かかったのを我慢しながら……。
ところがその時だった。僕がよりかかっていた背後の床柱の中で……ジジジ……ジイジイジイ……ジジジ……と妙な音がしたのは……
……・・・── ─ ── ──・・・……SOS!……
僕はビックリして振返った。万一の時の用心に床柱の中へベルが仕掛けてあることをタッタ今、聞いたばかりだったから……。
しかし女将は驚かなかった。
「待っていなさいよ」
と眼顔で押えつけながら立ち上って手早く帯と襟元を直した。
「ここはわたしだけしか知らない地下室だからね。平気で丹次郎をきめていなさいよ」
といいいい先刻はいって来た押入の中の回転壁から出て行った。
僕もすぐ落付いてしまった。……女将はおれを味方につけて何かの役に立てるつもりだな……おれを片づけるつもりならコンナ馬鹿念の入ったもてなしをするはずはない……ということを最初の女将の素振りから百パーセントに感づいていたのだから……そしてアトは十五万円の
「何だったかね」
と僕は水を飲み飲み問うた。
しかし女将は答えなかった。崩れた丸髷をうつむけて下唇をかんだまま、僕の前まで来てペタリと座り込むと、イキナリ僕の手にあった水瓶を取り上げてゴクゴクと口から口へ飲んだ。それから気を落付けるらしくフーウッと一つ
「どうしたんだ。いったい……」
女将はちょっと舌なめずりをした。
「お前さんはここへ来ることを誰かにいって来たの」
「ウン別段いったわけではないが……あの手紙を上等兵が見ていたからね」
「……まあ……あの手紙って何の事……」
「君が会計係の名前で出したじゃないか。銀の煙草入れを渡すから来いといって……だから来たんじゃないか」
女将はまた、眼をパチパチさせた。シンから
僕はその間に冷えた杯を干していた。また何か芝居を始めるのかな……と思いながら……。
その眼の前で女将は一切を否定するような恰好で、丸髷の頭を強く左右に振ったと思うと、やがてパッチリと眼を見開いた。冷え切った顔色とすわった眼つき、いま一度ジイッと僕の顔を見た。空虚な
「あんたは欺されているのね」
僕は返事をしなかった。モウ一パイ冷たい酒を干しながら次の言葉を待った。
「あんたは憲兵をばかにしていたでしょう。何ができるかと思って……」
僕は黙ってうなずいた。
「……それが、いけなかったんだよ」
「どうして……」
と僕は冷笑した。女将は
「……笑いごとじゃないんですよ。憲兵は最初から、あの司令部の中に赤軍スパイがいると思って疑いをかけていたんだよ。そうしてそのスパイがイヨイヨあんたに違いないことがわかったから、わざと実地調査にかこつけて捜索本部を引き上げたんだよ。そうして、あんたを偽手紙で追い出しておいてあんたの私物
「どうしてわかる」
「あんたはわからないの」
「わからないね」
「うちの会計の阪見はその筋のスパイに違いないんだよ。お金を取立てに行くふりをして、いろんな人たちと連絡を取っているに違いないんだよ。わたしはズッと前から感づいているんだけど……」
女将の言葉はどこまでも静かに怯えていた。
僕はジッと腕を組んで考えた。ここが生死の瀬戸ぎわだと思って……。その間に女将は話し続けた。一々念を押すようにくり返して……。
……十梨と阪見は、どちらも特務機関の参謀に直属する軍事探偵で、十五万円事件は単にオスロフを葬るための芝居にすぎなかったらしいこと……。
……星黒はキット無事でいて、どこかに隠れているに違いないこと……。
……オスロフ殺しの陰謀簾中は、無理にも全体の責任を僕……上村当番卒の仕事にして発表して白軍と、ハルビン市中にいるオスロフの
……ツイ今しがた会計の阪見が家の中をグルグルまわって誰かを探しているらしかったが、間もなく司令部から電話が掛かって、女将へ直接に、僕の行くえを問い合わせてきたこと……。
……だから女将はとりあえず「モウお帰りになりました」と返事しておいたが、しかし司令部が、そんなことで納得したかどうかわからない。……だからモウ銀月の周囲には、水も
……だからその網が解けるまでこの部屋に隠れていなければならないこと……。
そんな話を聴いているうちに僕はニヤニヤ笑い出した。……笑わずにはいられなくなったからだ。そうして無言のまま立ち上って、部屋を出て行くべく押入れの
その時の僕の冷静だったこと……気の強かったこと……今思い出して不思議なぐらいであった。
さすがの
「どこへ行くの……あんたは……」
「ウン。司令部へ帰るんだ」
「そのままで……」
「ああ。何なら軍服を出してくれたまえ」
「……出して……あげてもいいけど何しに帰るの」
「わかりきっているじゃないか。自首して出るのさ」
女将は毒気を抜かれたらしくペタリと座り込んだ。今度こそホントウに驚いたらしい。ホッと太い息を吐いた。
「……まあ……殺されてもいいの」
僕は冷笑し続けた。ヤット芝居気の抜けた女将の態度を見下ろしながら……。
「むろん。覚悟の前さ。僕が銃殺される前に何もかもわかるだろう。ホントの事実が……」
「…………」
「僕は嘘を吐くのは嫌いだ」
「……まあッ……」
と女将は僕に飛びついて来た。色も飾りもないしんけんな泣き顔になった。
「……あんたは……わたしを棄てて行くの……」
「ああ。そのほうが早わかりと思うからさ。なるべく身体を大切にして、余計気苦労をしないようにしてね……か……ハハハ……」
女将の顔色がサッと一変した。僕の両腕をシッカリとつかまえたまま、眼をむき出して振り仰いだ。その顔を見ると僕は何かしら、あらん限りの残忍な言葉を浴びせてみたくなったから、不思議であった。
「ハハハ。何も驚くことはないさ。女の知恵ってものは底が知れているからね」
「…………」
「阪見は要するにお前さんのオモチャさ。骨抜人形さ。モットはっきりいえば男妾さ。まだ会ったことはないが、大概寸法はきまっている。ね。……そうだろう。僕に出したアノ手紙はこの家にある器械で打たせたんだろう。お前さんが大急ぎで阪見に口うつしにしてね……そうだろう……女の文章はじきにわかるんだよ……僕には……」
「…………」
「それでも何もかもわかるじゃないか。十五万円事件の邪魔になるオスロフは十梨が打った密告文で片づいた。星黒主計も、十梨とお前さんとの知恵で始末してしまった。日本の憲兵はどこまでも日本の憲兵で内地の警察とは違うんだから。絶対に筋書がばれる気づかいはない。アトは十梨か僕かという寸法だろう。浮気なお前さんのことだからね。ハハン……」
「…………」
「僕はね。僕のアタマの良さに愛想が尽きたんだよ。何もかもわからなくなっちゃったんだよ……タッタ今」
まっ白になるまでかみしめていた女将の唇の両端がビクビクと震え出した。両方の白眼がギリギリと釣り上って血走った。
「……だから……僕が銃殺されたら何もかもわかるだろうと思ってね……ハハハ……」
僕の両腕をシッカリと握っている女将の手の
予期していた僕は、その手を引っつかんで思い切り引寄せた。キラリと光るピストルを引ったくりざま力任せに突き飛ばした。
女将の身体にはニーナの半分ほどの力もなかった。ヒョロヒョロと背後へよろめいて行く拍子にガソリン
「アレッ……助けてッ」
と叫びながら女将は火の海の中を僕の方へはい出して来た。焼けた片鬢の毛をブラ下げながら……
「……お金を……お金を……みんな上げるから……アレッ……」
その地獄じみた表情を見ると僕はいっそう残忍な気持になった。……何だ腐った金……といいたい気持でその顔を目がけて力一パイ
その執念深い、青鬼のような表情が、みるみる放神したように仏顔になって行った……と思うと、白い唇をワナワナと震わしながら、黒焦げの
僕は悠々と押入れの中にはいって、襖をピッタリと閉め切った。はいりがけに見て来たとおりに正面の回転壁を抜けて、木の香のこもった湯殿へ抜けて、何の苦もなく地下室の階段に出た。
その階段の上の廊下へ出て、マットの下の落し戸をキチンと閉めてしまったところへ、知らない女中が一人通りかかったから、何食わぬ顔で、
「僕の軍服を出してくれないか」
と頼んでみると、
「ハイ。かしこまりました」
というなり大きな鏡のある西洋間に案内した。芳ばしいお茶と一緒に番号札の付いた乱籠を出してくれた。
……ナアンダイ……と思わせられながらチャンと着換えて玄関を出た。
往来を司令部の方向へ一町ばかり歩いてみたが誰も
人間の運命というものは大てい、一本調子の直線か弧線を描いているものだが、それでも時々人を驚かす。だから、それが
ところが僕の場合は、それが突然にポキンと折れ曲った鋭角を描きあらわしてきたのだ。
それから一時間ばかり後の僕は、快速らしい白塗りのモーターボートに乗って、松花江を下流へ下流へと滑走していた。運転をしているのは一昨夜、僕を刺そうとしたニーナで、時速七、八マイルも出していたろうか。
「このボートはイギリスの石炭屋さんが置いて行ったソアニー・クロストの十二シリンダーよ。素人に扱えないから買手がなかったんですって……七十五マイルまで出るっていうのにタッタ八百五十ドルだったのよ」
とニーナが説明したが、しかし万一を警戒するためにランタンを消して、なるべく岸沿いに走っていたので、微かな機械の音とダブリダブリと岸を打つ波の音しか聞えなかった。細い月はもうトックに上流の方へ堕ちていたが、それでも河明りがタマラなく恐ろしかったことを考えると僕は、いつの間には酔いから
ニーナは片手で巨大な日本梨をかじっていた。ガソリンの缶を
それを受け取ったニーナはしばらくジイッと考えていたようであった。何が悲しいのか梨を持った右手の黒い
「……どこまでもアンタと一緒に行くわ、アンタのような何も知らない正直な人間を、仕事の邪魔になるから殺す……なんて決議をした奴らはモウ決議した時からわたしの敵だわ。日本の官憲だって白軍だって何だってアンタに指一本でもさした奴はミンナ敵にしてやるわ。だってアンタを
……イイエ。アンタは何も知らないの。
……だからわたしのいうことをお聞きなさいっていうのよ。馬鹿正直に人のいうなりになって、何が何だかわからないままマゴマゴウロウロしているうちに、ヘッドライトもサイレンも番号札も何にもないトラックの下に敷かれっ放しになったらドウするの……誤解の解けるまでどこかに隠れて身の明りを立てなくちゃ噓だわよ……捕まりそうになったらかまわない。この河をハバロフスクまで行って、あそこで油と食料を買い直して、それからニコライエフスクまで下って行く。そこから汽船で
……わたしは主義とか思想とかいうものは大嫌いだ。チットもわからないしおもしろくもない。『理屈をいう奴は犬猫に劣る』って本当だわ。
……わたしには好きと嫌いの二つしか道がないのだ。わたしはその中で好きなほうの道を一直線に行くだけだわよ。
……わたしが赤軍に加勢していたのはアブリコゾフを好いていたからだ。わたしはツイ二、三日前まで赤軍がドンナ事をしているものなのかチットも知らなかったのだ。ただアブリコゾフを生命がけの男らしい仕事をしている人間と信じきっていただけだ。それ以外に何の意味もなかったのだ。
……今だってオンナジことだ。わたしは何がなしにアンタを救い出さずにはいられなくなったのだ。赤とか白とかいって
……わたしはブルジョアでもプロレタリアトでもない。だからブルジョアでもプロレタリアトでも
……だけども惜しいことに日本の軍人はアンマリ正直すぎるようだ。人の良い、職務に忠実な日本の軍人は悪い知恵にかけてはトテモ普通の日本人にかなわないようだ。銀月の
……その日本の軍人の中でもわたしはアンタが一番好きになっちゃった。わたしはアンタが銀月の中にはいったことを知っていたけど、チットも心配なんかしなかった。アンタはほかの軍人とおなじくらい正直な上に、赤の連中がビリビリするくらい頭がよくて、おまけにスゴイ勇気と力を持っているんだからね……銀月の女将の手管なんかに引っかかる気づかいは絶対にない。キット無事に切り抜けて、銀月を出て来るに違いないと思っていたんだからね。
……イイエ。オベッカなんかいったらわたし、
……アンタの手から短剣を奪い取ったのはヤッパリわたしよ。……ナアニ……何でもなかったの……わたしはあの時に追っかけて来た憲兵をモウ一度
……ところが引っ返してみるとアンタが大舞踏室の窓からのぞき込んでいるでしょう。今にも飛び込みそうな
……そのドバンチコっていうのは、ズット前にわたしの所に居た掃除人でね、わたしの身の上をよく知っていて、陰になり
……ドバンチコ爺さんはわたしの話をトテモ感心して聞いていたわ。マン丸く見開いた眼に涙を一パイにためてね。そうして、『その上村という兵隊さんこそホントウの勇者だ。キット正教会の信者に違いない』っていって眼をショボショボさしていたわよ。なぜっていうとね正教会のお説教の本にコンナ文句があるんですって……『一羽の雀だってけっして無駄に殺しちゃいけない。神様がその雀にお付けになった価値は、殺した後でなければわからないものだ。そうしてその時に殺した人間はキット後悔するものだ』っていうのよ。だからむやみに人を殺そうとしてはいけないっていって、わたしは昨日からさんざんお説教を聞かされちゃったのよ。
……わたしはそのお説教にスッカリ降参しちゃったわ。感心しちゃったわ。だってチャンとそのとおりになってきたじゃないの。ね。……アンタは一羽の雀よ。いいこと……ホホホ……。
……わたしと夫婦約束していたアブリコゾフが捕まったことは、ドバンチコの所へ行ってから聞いたのよ。おかげで赤軍の秘密がバレてしまったといって、その話を知らせに来たレポーターが憤慨していたわよ。わたしはそれっきりアブリコゾフに愛想が尽きてしまった。あんな意気地のない
……けれどもわたしは口惜しがる隙なんかなかった。今度はアンタを救い出さなければならなかったから……。十五万円事件の陰謀と、赤軍の計画しているハルビンの
……わたしはそのために思い切ってバリカンで頭を刈ってしまった。それから中学生に化けたり、メッセンジャーボーイの自転車を乗り逃げしたりして、町じゅうに散らばっている赤軍のスパイから情報を聞き集めているうちに種々な事がわかってきた。
……何よりも先にハルビン付近の赤軍には『日本軍が遠からず満洲から引き上げるに違いない。だからそれを機会にハルビンを中心にして満洲を赤化してしまえ』という指令が来ていたので、各地方から、あらゆる優秀なスパイを集中させていた。だから今度の事件でも赤軍のほうから探らなければトテモ真相がつかめなかったに違いない。その中でも朝鮮銀行から出て行く日本軍の軍資金は、ズット前から赤軍が
……星黒と十梨が十五万円を拐帯して土曜日の晩に逃げ込んだのは、やっぱりあの料理屋の銀月だった。それまで二人はどこかに隠れて飲んでいたらしい。日が暮れてからテイルランプを消した自動車に乗って銀月に乗りつけた二人の姿が、張り込んでいたスパイの眼にチラリと止まったのだ。
……だけど星黒は可哀そうに、その晩から、そのあくる日の日曜日の晩にかけて、殺されるかドウかしてしまったらしいの。
……なぜっていうと星黒は、その土曜日の晩から月曜日の夕方まで一度も姿を見せなかったのに、十梨は土曜日の夜遅く、
……それから十梨は、そこいらに落ちている流木を拾い集めて、一露里半ばかり隔たった所にある小高い丘の上に登って行った。そこで手に持った包みの中から、軍服らしいものを取り出して、流木と一緒クタに石油を振りかけながら焼いている様子であったが、距離が遠かったから、その軍服の肩章や、襟章なんかはよくわからなかった。そのうちに十梨は立ち上って、地図らしいものをポケットから出して照らし合わせながら、四方八方を見まわし始めたので、見つかっては大変と思って、草の中に潜りながら引っ返して来たが、十梨の姿は、そのまま下流の方向へ、草を分け分け消え失せて行ったようであった……という報告が、その日の午後になって、ナハロフカの旧教会に隠れている、赤軍の首脳部のところに来た。
……赤軍の首脳部の連中は、こうした十梨の怪行動について、ずいぶん頭をひねっていた。星黒は自分で軍服を焼いたように見せかけているらしいことは、アラカタ推測がつくが、それから徒歩で、下流の方向に行った理由が、どうしてもわからないといって困っていた。前の日の土曜の晩に、コッソリ星黒を誘い出して、そこまで連れて来て殺したのじゃないか。そうしてモウ一度空っぽのトランクを持って後始末をしに行ったんじゃないか……といったような細かい説明をつける者もいたが、しかし、どっちにしてもそのトランクの中身が、お金じゃないかという疑いはみんな十分に持っていた。
……赤軍の連中は、だからその晩の七時半頃に、四、五人でサイドカーとオートバイ飛び乗って、現場に行ってみた。わたしもその中に混っていたが、案内に立った赤の一人が、『ここだ』と指さした川隈に小さな碇の付いた綱を投げ込んで、サイドカーと結び合わせて沈めてあったトランクを草の中に引き上げて、細い月あかりの下で開いてみると、中からは、後頭部と下腹部を背後から射抜かれた星黒主計の、丸裸の変色死体と、十梨が脱いで行ったらしい飛行服と、重たい鉄片が出て来た。それは、ずいぶんスゴイ見物であったが、しかし、お金は一文もはいっていなかったから、そのまま元のとおりに暗い水の底へ沈めて来た。
……だから……そうした事実から考え合わせてみると、十五万円のお金は、十中八九まで銀月の中のドコかに隠してなければならぬ。つまり銀月の
……銀月の女将がカタリナ皇后にも負けない大悪党で、十梨がそのお先棒になっている証拠は、あれだけの事実で百二十パーセントに裏書きされてしまった。……もっともモウ一人、阪見って男が、銀月の男妾になっているって話だけど、この男は、大変な飲み助で、いつもグウグウ寝てばかりいるので、赤軍ではテンデ問題にしていなかった。打っちゃっておいたら今にキット、十梨が銀月に入り込むに違いないっていっていた。
……銀月の女将はアンタを味方につけて、何かの役に立てようと思って
……銀月から出た邦文タイプライターの呼出し手紙がアンタに届いたことは、赤の一人が化けていた郵便配達夫から、すぐにナハロフカの首脳部へ通知してきた。すると陰謀に
……わたしは赤軍の首脳部がアンタのことをあんまり詳しく知っているので気味が悪くなってしまった。それはアンタが、司令部のお使いを一人で引き受けているばかりでなく、女や、酒や、
……しかしその次に提出された十梨通訳の処分問題は、アンタと正反対に満場一致で、わけもなく可決された。
十梨通訳は元来上海にいる中国人の富豪と日本人の
……だから赤軍の建前からいうと、十梨はすぐに裏切者として、処分しなければならないはずであった。上海からも催促してきているくらいであったが、しかしそれは十五万円の行くえがわかってから後のほうがいい。星黒が盗み出した金はたぶん、銀月の中のどこかに隠してあると思われるが、しかしまだハッキリとした断定はできない。十梨だって油断はしていないに違いないから、ことによるとお金はまだ銀月の女将に引き渡さないで、どこかに隠していないとも限らぬ。だからそれを一分一厘間違いないところまで探り出すには、無罪放免となった後のあいつの行動に気をつけているのが一番早道だろう。そうしてイヨイヨお金の
……わたしはソンナ剃団がアラカタきまると、話の変らないうちに大急ぎで対岸のドバンチコ
……だからわたしは家へ帰って、ドバンチコのお神さんやウジャウジャいる子供たちと一緒に
……それから色眼鏡をかけた中国人に変装して、銀月の横町に、自動車を用意して待っていた。幸せと銀月には何の警戒もついていなかったので、冒険する必要はなかったが、その代りずいぶん待ち遠しかった。第一警戒がないために、アンタが銀月にいるかいないのか、確かな見当がつかなかったので、何とかして探り出す方法はないかとソレばっかり苦心していた。
……すると、ちょうどいいことに十時頃だったか、赤軍の本部にいる可愛いメッセンジャーボーイの姿をしたレポーターが、自転車に乗って通りかかった。その小僧は路次の中に隠れているわたしの姿を見るとすぐに片手をうしろ向きに上げて『引き上げろ』という合図をしたから、わたしは大急ぎで追いついてハンドルをつかまえながら、路次へ引っぱり込んで様子を聞いてみると、その話がトテも大変なの……『ニーナさんはこの前に上村一等卒を殺しかけてシクジッタんだから、サッキの指令は取り消したほうがいいっていうことに、首脳部で話がきまった』ってその小僧がいうの。そうしてその代りに、日本軍の司令部へ宛てた密告書を出すことになった。『上村一等卒はオスロフに買収された赤軍のレポーターだ』っていう内容で。白軍から出したように見せかけた手紙を、タッタ今セントランの郵便受箱に入れて来たところだ。その中には、今までの上村一等卒の怪しい行動がみんな書いてあるから、大てい申開きができないで殺されるだろう。それよりも司令部の連中が今の間にその手紙を見て、こちらの方に手配りを始めた。『ケンノンだから早くどこかへ逃げなさい』といううちにその小僧は顔をまっ赤にしながら、わたしを振り切って逃げて行った。
……可哀そうにあの小僧は殺されているかもしれない。なぜっていうと赤軍では、ドンナに無茶な指令を出しても、その理由を絶対に説明しないことになっている。そうして万一それを犯したことがわかったら、事情のあるなしにかかわらず死刑にする……という厳重な規定があるのだから……もっともわたしはハルビンの赤軍の中でもタッタ一人の女だったし、今までの仕事もあったおかげで、首領株とおんなじに信用されているんだから、あの小僧もそのつもりでウッカリしゃべったかもしれない。
……ところでわたしはその指令を受け取っても動かなかった。あの小僧と一緒に死刑にされてもガンバリ通す決心をしてしまった。その指令のおかげでアンタが銀月の中にいることが確かになったのだから、イヨイヨ度胸をきめて、そのまんま辛抱を続けていると、ヤット十一時頃になってアンタがブラリブラリと出て来たから、イキナリ短銃を突きつけて自動車に乗せた。それからアトをつけられているか、どうかを見るためにトルワコヤ街を下って、チャリナゴナリナヤ街を一直線に、鉄道工場の横まで来て自動車を帰して、線路を乗り越して河岸からこのボートに乗り込んだのだ。もはやヨットクラブの前を乗り越したし、鉄橋の下も傅家甸の横も通り抜けたから大丈夫だ。アトは今の間にわたしの裏切りを感づいて、河岸に出ているかもしれない赤軍の監視と、モット下流の方で星黒の行くえを捜索しているかもしれない日本の憲兵隊が怖いだけだ。
……しかし、それよりも何よりも、わたしが一番怖かったのは誰でもないアンタだった。アンタがわたしの変装を一眼で見破っているらしいのに、両手をポケットに突っ込んだままわたしのいうなりになってきたので、何をされるかわからないと思ってヒヤヒヤして来たが、タッタ今、梨をむいてくれたので、ホット安心した。……けれど、それと同時に、アンタが日本の官憲に逮捕されても、やっぱりあんなふうに黙りコクったまま銃殺されてしまうのかと思うと、悲しくなって涙が出た。
……でも、そんなに苦労をしたおかげで、アンタとわたしだけが、こうして助かることができたんだから
……わたしはオスロフを可哀そうとは思わない。あの男は、あれで、なかなかの好色漢だ。満洲里にもポタラニーチナヤにも妾を置いているのだ。おまけに奥さんが肺病だもんだから、死んだらわたしをオメカケにするつもりでいることが、奥さんに秘密で宝石を買ってくれたり、コッソリお酒を飲ませたりして眺めている眼つきでよくわかっていたの……イイエ。そうなの。ドバンチコもそういってたの。お父さんには用心なさいっていっていたくらいだから……。
……ただ可哀想そうなのはお祖母様と奥さんであった。わたしを親身の孫や娘のように可愛がって下さったので、十梨と銀月の
……十梨と銀月の女将はドバンチコのいう
といううちに彼女はスッカリ興奮したらしい。二つ目の梨の食いさしを松花江の流れめがけて力一パイたたき込んだ。
僕は何もいわなかった。否……いえなかったのだ。
ニーナの話を聞いているうちにスッカリ酔いが
それはこの二、三日の間に突発してきた恐ろしい出来事の重なり合いに対して、あらん限り絞り上げてきた僕の
けれどもそのうちに彼女の話が終ると、僕はホッと
背後はるかに隔った大鉄橋の左手が、大きな大きな夕日の色に染まっている。そうしてその大
僕は身動き一つしないままその光を一心に振り返っていた。何の音もなく雲の下腹をあぶり出しているその偉大な大光明の核心を、いつまでも、いつまでも凝視していたが、そのうちに何ともいえない奇妙な気持で胸が一パイになってきた。
それは
その大光明を振り返っていた僕は、何かなしに、もう二度と再びハルビンに帰れないような気持になってきたのであった。同時にこうしてグングンと人間世界から引き離されて行く自分自身のたまらない一種の
……なぜあのままに自首して出なかったろう。すべての罪を、自分一人に結びつけられてもかまわない。誤解された陸軍歩兵一等卒としての愚かな一生を終らなかったろう……といったようなきわめて、超自然的な後悔の気持が、静かな十二
そのうちに僕はヤット気がついてニーナの方を振り向いた。無言のままブルブルと震える指をソッと彼女の肩に置いた。
「……マア……キレイ……」
とニーナは振り返りざま日本語で叫んだ。ピタリと器械を止めながら、危険を忘れて河の中流にコースを取った。それについれて火光を真正面に受けたニーナの顔がみるみるまっ赤に輝き出した。僕の顔をチラリと見ながら露語で尋ねた。
「……あれは銀月じゃない……」
僕は無言のままうなずいた。
「……アンタが火を
僕は泣きも笑いもできない気持になった。法廷に引き出された人間のように、
「……そればかりじゃないよ。ニーナさん。あの光の中心に……銀月の女将の……白骨が寝ているんですよ」
「……まあッ……嬉しいッ……」
とニーナはまたも日本語で叫びながら座席を飛び出して来た。僕の首っ玉に飛びついて、雨の降るように
「……あぶないよ。ニーナ……ボートが引っっくり返るよ……見つかるよ官憲に……」
といいいい押し除けようとしたがニーナはなかなか離れなかった。
ボートはいつの間にか艇尾を下流に向けながら押し流されていた。
するとその時であった。どこからか伝わってきた……ピシッ……という烈しい空気の振動とほとんど同時に、
ツタ──ンンン……
という銃声が、両岸の闇をはるかに
ピシッ……ツタ──ン……
ピシッ……ツタ──ン……
ピシッ……ツタ──ンンン……
それは日本の官憲のものだか、赤軍の監視隊のものだかわからなかった。いずれにしても僕たちを十五万円の拐帯犯人とにらんでいるには違いないと思われた。
しかし僕はあわてて身を伏せたりなんかしなかった。アタマがどうかなっていたせいであったろう……
両手で
不思議なことにニーナも僕と同じような姿勢をとっていた。何と思っていたのかわからないが……あるいは彼女独得の無鉄砲な好奇心から相手の正体を見定めるつもりだったかもしれない。お
「プップッ……ニチェウォ──」
と一と声叫んだと思うと、ガソリンの缶を
僕は振り落されそうになった身体を辛うじて食い止めた。両手で顔を蔽うてグッタリとうなだれながら心の底でつぶやいた。
「……すみません。皆さん。すみません。……僕にはドウしていいか……どうなるのかわかりません……許して下さい……」
といった意味のことを、当てどもなく祈り続けた。
島の間をいくつもいくつも通り越して、ハルビンの光が全く見えなくなってもニーナは速力を落さなかった。あぶないからハバロフスクまで逃げるのだといった。そうして夜が明けると、道路に遠い支流を上って、深い
その食事の最中に彼女は、ソバカスで
「……ネエ……わたしもうじれったくなったから、ここから赤軍に
そういううちに彼女は船底から、飲みさしのまっ黒なウォッカの角瓶を引っぱり出して、さも気持よさそうにコルクの栓をスッポンと引き抜いた。おおかた彼女一流の、悪魔のような記憶力を
しかし正直のところその時の僕にとっては、そんなことはドウでもよかったのであった。夜が明けるにつれてハッキリと
「……ネエネエ。アンタ。とてもおもしろいことがあるのよ。ネエネエ。……この上流に金鉱か何かあるらしいのよ。いつもハルビンに金塊を持って来るっていう評判の船が、ツイ今しがたこちらの岸近くを下って行ったのよ……だからわたしはすぐに陸に上って、銀貨を四、五枚、手紙に結いつけたのを、その船の甲板に投げ込んでやったの。そうしたら主人らしいりっぱな中国人が出て来て、手紙を拾い上げて広げて見るなり、眼をマン丸くしてわたしの顔を見たのよ。おおかた日本軍司令部の
と話かけるニーナの声を夢うつつのように聞きながら、酒臭い彼女の身体を毛布の下に抱き寄せたのであった。
日が照り出していたのでトテモ暑かった。
それから二晩ほど走るうちに、機会が悪くなったらしく、何度も何度も故障が起りはじめた。そうして予定よりもズット早くガソリンがなくなりかけたので、トウトウ
晩秋の光にみちみちた大河岸の、広い広い草原の中に立った時、僕は何かなしにタメ息をさせられた。青い青い空を仰ぎながら、もういよいよだめだ……と思った。
食事がすむと彼女は飲料水の全部をバケツの中にブチマケて、片手で
彼女はそこで、二、三歩退いて僕の姿を眺めると腹を抱えて笑い出した。
「ホホホハッハハ……ハラショ……オーチェンハラショ……とてもよく似合ったわ。すまあしてんのねアンタは……
といううちに彼女は素早く支那服を脱いで、強健なオリーブ色の手足を朝の斜光に
彼女はそこで、簡単な曲を口移しに教えるつもりらしかったが、案外にも僕が譜だけ知っているジプシー舞踏曲「ドンドン燃やせ……
「モウいい……それだけあればたくさんよ」
というかと思うと、高い草を押し分けながら、ステップを踏み踏みサッサと歩き出した。舞踏好きの彼女はもうハルビンの出来事なんかトウに忘れてしまったように浮かれ出しているのであった。
坊主頭の彼女のあとから草を押しわけて行く自分の姿を振り返った時、僕は涙も出なかった。
二人は、それから一枚の露国地図を頼りにして、シベリアの
それは僕の生涯の中で、一番思い出の深かった……楽しいという意味ではない。自分の魂が空虚の中に消え込んで行くような気持での……生活であったが、その詳細はここに必要がないから大略しておく。別に『シベリア漂浪記』というのを書いているにはいるが、これも
僕の
二人が演ずる手風琴とジプシー踊りの一座は至る所の村々の人気を呼んだ。山奥の富裕な村の結婚式や祭礼にぶつかった時はヘトヘトになるほどもてはやされた。
しかし雪が降って来ると旅行のスピードが急に倍加してきた。駅伝の
僕はその旅行中にいろいろな事を見たり聞いたりした。
二人がウラジオに来たのは別に深い意味があってのことではなかった。二人の変装に自信がついてくるにつれて、都会が恋しくなったからでもあったろうし、一つにはそれとなくハルビンの様子を聞いてみたいという……僕の良心的な気持の動きも手伝っていたであろう。翌年(今年)の正月の初めにニコリスクで白軍に押えられて、危なくスパイの嫌疑を受けるところであったのを、ちょうどニーナから教わっていたジプシー語が役に立って、無事に放免されたのは
それから橇でウラジオにはいって、スエツランスカヤの裏通りの公園に近い所にある
ここに落付くとニーナは、クチャクチャ婆さんを通じてどこかの親分にワタリをつけたらしい。例のとおりの鉛白粉と紅棒で毒々しくお化粧をして、スエツランスカヤの大通りに並ぶレストランやコーヒー店を軒別に踊ってまわった。
しかし僕は一歩も外に出さなかった。
「ウラジオには日本軍が駐屯している。おまけにアメリカの軍艦が引き上げてからというもの、どうした訳か日本軍のスパイの
そういって僕に黒パンと、酒と、缶詰を当てがいながら口笛を吹き吹き出て行った。僕はその留守中にいつも手風琴を弾いたり、シベリア漂浪記を書いたりしていたが、長いこと旅行を続けたあげくにきた幽囚同様の生活だったから、たまらなくわびしかった。疲れ切って帰って来る彼女の酔っ払い姿はなおさら文句なしに悲しかった。そうして二月に入ると僕はスッカリ健康を害してしまったらしくニーナの留守中に薪を
けれども、こうした僕の苦心は、そんなに長く続ける必要がなかった。二月に入ってから間もない一昨日(八日)の晩のことであった。ニーナが平生よりも早く九時半頃、帽子も冠らないまま大雪を浴びて帰って来たから寝ていた僕は眼を
「……どうしたんだえ……」
と問うた。またお客と
ニーナはしかし答えなかった。
そのうちにニーナは突然に僕の顔を振り返ってニッコリ笑った。
「ねえアンタ。わたしたちモウだめなのよ」
トテモいい気持に陶酔しかけていた僕は、しかし平気で煙を吹き上げた。
「フーン、どうしてだめなんだい」
ニーナは平生のとおり、梨の汁を飲み込み飲み込み話し出した。平気な、茶目気を帯びた口調で……。
「こちらの方へもスッカリ手がまわってんのよ」
というのであった……。
……ニーナは今まで黙っていたけれども、ウラジオに来るとすぐからハルビンの様子に気をつけて、それとなく探りまわしていたものであったが、きょうがきょうまで、それこそ何の情報も聞かなかった。日本軍のシベリア撤兵がはたしてできるかどうかといったような議論は、どこに行っても、人種の区別なしに闘わされていたが、しかしカンジンの十五万円事件はもちろんのこと、オスロフの銃殺事件でさえも伝わっている模様がなかったので、トテモ気味が悪くてしようがなかった。絶対秘密にされていればいるほど探索の手が厳しいのじゃないかと思ってできる限りお化粧を濃くしていた。
ところが今夜になって思いがけない不意打を食らってしまった。
スエツランスカヤでも一流のレストラン・ルスキーの地下室で踊っている最中であった。ピアノの前のテーブルでウイスキーを飲んでいる色の黒い日本紳士が二人、ニーナの顔を見い見い何かしら話し合っている様子が妙に気になったから、いつものとおり背向きになって踊りながら近づいてみた。すると日本語だったから、よくはわからなかったが「イヤ違う」とか「イヤ、そうらしい」とかいって争いながら笑い合っているのであった。それから少しばかり声を潜めながら「この事件はかなりトンチンカンだ」とか「オスロフと十五万円は別々の問題らしい」とか話し合っている声が、弾み切った音楽の切れ目切れ目に聞えたが、あんまり長いこと傍に居ると疑われるかもしれないと思って、またも踊りながら遠ざかって行くと、その中の一人がニーナの足下に十ルーブルの金貨をチリリンと投げた。
ニーナはコンナ気前のいいお客に一度もぶつかったことがなかったので、少々気味が悪かった。でも
「アハハハ。見たまえ君。断髪だろう。ソバカスはわからないが、年頃もちょうど似通っている。……ネエ。そうじゃないかナハヤさん。君はいったいいくつなんだい」
とその紳士が上手なロシア語で尋ねた時にはさすがのニーナも身体じゅうの血が凍ったかと思った。お化粧をしていなかったらすぐにも顔色を
ところが、よく気をつけてみるとその紳士たちは二人ともかなり酔っているらしかった。だから冗談半分のつもりでそんなことをしたものであろう。相手の年
「……オイ。娘っ子、貴様の名前はニーナっていうんだろう。……隠すと承知せんぞ」
モウ度胸のきまっていたニーナは
「ええ。そうですよ。日本語でニーナ。ロシア語でオイシイ、ウイスキー……」
二人の日本紳士はテーブルをたたいて
そのうちに二人はニーナを引っぱって元の席へ戻ると、強いジン酒を三杯注文した。そこでお盆が来るや否や、ボーイがまだ下へ置かないうちに、素早く手を伸ばしたニーナは、三杯とも一息にグイグイグイと飲み干すと、アッと驚いている人々を
ところがこのムカッツイというのがまた妙な男で、まだ何も尋ねないうちに金貨をつかんだニーナの手を押しもどすと脂切った眼をギョロギョロさせながら、毛ムクジャラの指を一本ピッタリと唇に当てた。
「……あの二人の日本人のことが聞きてえっていうんだろう。……ナ……そうだろう……気をつけなよ。ありゃあこの間からヤット開通したハルビン直通の列車に乗って来たばかしの怖いオジサンたちだよ。若いほうが通訳で。年老ったほうが鉱山技師っていう触れ込みだがね。何でも前月の末に、ハルビンで赤い連中を根こそぎ退治て来たってんで、チョットばかしメートルをあげてござるんだそうだ。……ところでナハヤさん……そんなことあどうでもいいがこの頃、ウラジオの方へドエライお
ニーナはそういうムカッツイに両手で赤ンベエをして見せながら、横っ飛びに逃げて来たが、生れてコンナ怖い思いをしたことはなかった。お酒の酔いも何も一ペンに
「だからモウだめよ。あの赤っ鼻の禿頭はボルセビーキの密偵のくせにわたしに
といううちに彼女は梨の大きいのに降参したらしく、食い残しの半分をナイフで荒っぽく
「フーン。それじゃ十五万円はやっぱり銀月の中のどこかに隠してあったんだな」
「そうよ。それが焼けっちゃったことがわかったもんだから赤の連中が、ムシャクシヤ腹で十梨を殺したのよ」
「惜しいことをしたな。無罪の証拠になるんだったのに……」
「証拠なんかなくたってアンタは無罪じゃないの」
「お前に対してだけはね……」
「わたしは有罪だって何だってかまやしないわ」
「ハッハッハッ……しかし驚いたなあ。星黒の死骸までおれのせいになっちゃうなんて……」
「ばかにしてんのね。そんな嫌疑を一ペンに引っくり返す証拠が残っているとおもしろいわね」
「ウン。タッタ一つすてきなのが残っているんだ。今しがたお前の話を聞いているうちに思い出したんだがね」
「……まあ……ドンナ証拠……」
「……わからないか……」
「……わからないわ」
「今までの出来事をズーッと一遍とおり考え直してごらん……憶えているだろう。何度も話したんだから……」
「ええ。だけど……わからないわ。……イクラ考えてもわからないわ。アタマがどうかしてんのよ今夜は……」
「……十梨が、星黒から分けてもらった官金の一部だといって、憲兵の前に提出した十六枚の二十円札の話をしたろう」
「ええ。聞いたわ。その二十円札っていうのは、十梨が星黒を殺した時に奪い取った星黒の給料だったに違いないってアンタがそういったわ。その中の一枚の裏側に、星黒がつけた赤インキの
「ウン。その二十円札の番号と、朝鮮銀行の支店に控えてある札番号と引き合わせりゃあ、十五万円の一部じゃないことが、すぐにわかるはずだろう。十梨がいったことがミンナ噓だったってことやなんかも一緒に……」
「……まあッ……どうして今まで気がつかなかったんでしょう。あたしばかね。ヨッポド……」
「ナアニ。みんなばかなんだよ。今から考えると、これは十梨のオッチョコチョイが、あんまり話を上手に作ろう作ろうと思って、焦り過ぎたためにできた大手抜かりだね。たぶん、十五万円を手つかずのままソックリ銀月の女将に預け込んで、自分一人で星黒の死骸を始末しに行っているうちに、十梨がかってにヒネリ出した浅知恵に違いないと思うんだ。銀月の女将が一枚はいってりゃあ、そんなへまなセリフをつける気遣いはないからね。……ところが、その時には当の本人の十梨も、相手の憲兵も、陪審員の僕も、そのほかの連中も一人として気がつかなかったんだから妙だね」
「……やっぱり運よ。物事ってソンナもんよ……だけどその話は、そん時にいい出すよりも、今になってアンタからそういってやったほうが利き目がありはしない……」
「そりゃあそうさ。しかし……その二十円札がズウッと憲兵隊に保管してあればっていう話だからね。十梨が放免されたところから見ると、その二十円はトックの昔に没収されちゃったろうよ」
「……そりゃあそうね……」
ニーナは何かしらほかのことを考えているらしく形式的にうなずいた。
その顔を見い見い僕は
「お前と一緒に逃げたおかげで、とうとう結末がついちゃったね」
ニーナはプイッとすねたような
「……あアあ。わたしの仕事もおしまいになっちゃったア。……アンタに惚れたのが運の尽きだったわよ」
といううちにまたもガリガリと梨をかじり始めるのであった。
僕はうまい葉巻の煙を天井に吹き上げていた。
気のせいかまたも二、三発、停車場の方向で銃声を聞いたように思いながら……。
病気のせいもあったろう。すべてを
その時にニーナはまたも、新しい小さい梨を一つポケットから出して、今度は丁寧に皮を剝いた。そうしてその白い、マン丸い、水分の多い肌合いをしばらくの間ジッと眺めまわしていたが、やがてガブリとかみつくと、スウスウと汁をすすり上げながら無造作にいった。
「ねえアンタ」
「何だい」
「……わたしと一緒に死んでみない……」
僕はだまっていた。ちょうど考えていたことをいわれたので……
「ねえ。……ドウセだめなら銃殺されるよりいいわ。ステキな死に方があるんだから……」
「フーン。どんな死に方だい」
と僕はできるだけ平気でいった。少しばかり胸を躍らせながら……ところが、それから梨をかみかみ説明するニーナの言葉を聞いているうちに僕はスッカリ興奮してしまった。表面は知らん顔をして葉巻の煙を吹き上げ吹き上げしていたが、おそらくこの時ぐらい神経をドキドキさせられたことはなかったであろう……。
僕はニーナの話を聞いているうちに、今の今までドンナ音楽を聞いても感じえなかった興奮を感じた。僕の生命の底の底を流るる僕のホントウの生命の流れを発見したのであった。……そうして全然生れ変ったような僕自身の心臓の鼓動を、ガムボージ色に棚引く煙の下にいきいきと感じたのであった。
ニーナはその晩から部屋を飛び出して準備を始めた。そうして昨日の午前中に三階に住んでいる中国人
僕は病気も何も忘れてこの遺書を書き始めた。発表していいか悪いかを君の判断に任せるために……もっとも書きかけのシベリア漂浪記の中から
ニーナはまだ編物を続けている。寄せ糸で編んだハンドバッグみたようなものが出来上りかけている。
注文した馬と橇はモウ下の物置の中に、
僕らは今夜十二時過ぎにこの橇に乗って出かけるのだ。まず上等の朝鮮人参を一本、馬にかませてから、ニーナが編んだハンドバッグに、やはり上等のウイスキーの角瓶を四、五本詰め込む。それから海岸通りの荷馬車
ルスキー島をまわったら一直線に沖の方に向かって馬をむちうつのだ。そうしてウイスキーを飲み飲みどこまでも沖へ出るのだ。
そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだん真珠のような色から、
この話はニーナがハルビンにいるうちにドバンチコから聞いていたそうで、そのドバンチコはまた、ある老看守から伝え聞いていたものだそうだが、大ていの者は、途中で酔いが
「……しかしアンタと二人なら大丈夫よ」
といって彼女が笑ったから、僕はこのペンを止めてにらみつけた。
「もし氷が日本まで続いていたらドウスル……」
といったら彼女は編棒をゴジャゴジャにして笑いこけた。